29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
30 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。
33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。
次にパウロは、復活の否定が信者の生活にどのような悪影響をもたらすかについて論じています。29節にこうあります。「もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。」これは非常に難解な聖句です。「死者のためのバプテスマ」が何を意味しているかについては、さまざまな見解があります。自然に読めば、バプテスマを受けないで死んだ近親者のための代理受洗のように読めます。しかし、パウロがそのような習慣に同意していたとは思えません。
以下に、筆者なりの見解を述べてみます。(1)「死者のゆえに受けるバプテスマ」という習慣は、当時のコリントの信者たちにはよく知られていたに違いありません。(2)これは、異教徒たちが行なっていた習慣だったのでしょう。その人たちは、正しい福音理解を持っていたわけではありませんが、それでも死後の命を信じ、死者のためのバプテスマを受けていたのです。(3)パウロはその習慣を容認していたわけではありませんが、その人たちが、「死後の命を信じてそれを行なっている」という点を取り上げ、それを自らの論点を補強するために使ったのでしょう。
いずれにしても、このような難解な箇所からある教理を打ち立ててはなりません。それが、解釈学の原則です。
もし死人の復活を否定するなら、死後の生の可能性も否定することになります。(1)もし復活がないなら、どのような献身的な生活も無意味なものになってしまいます。パウロは、「私にとって、毎日が死の連続です。」と語っています。(2)死後の希望をなくした人は、享楽的な人生を選ぶことになります。(3)しかし、死後の命はあるのですから、享楽的な生き方に誘い込まれないように注意せねばなりません。クリスチャンは、神と会う終末を自覚しながら正しい生活を送るように努めなければなりません。(4)最後にパウロは、知識を誇るコリントのクリスチャンたちの無知を指摘し、彼らを恥じさせようとしています。
死後の命を確信することによってあなたの人生のどこがどのように変わると思いますか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。死後の希望は、今を生きる力をもたらします。きょうも一日、希望をもって歩みます。私を、とこしえの道にお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
ヨブ記1~3、テトスへの手紙1
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