50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
いよいよ復活に関する議論の最後に来ました。ここでパウロは、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」と語っています。ここから、次のことが明らかになります。(1)天国(神の国)に住むためには、地上の体ではない天的な体が必要である。(2)罪を持った罪人は、そのままでは天国に入ることはできない。(3)キリストを信じた者も、一度死んで復活の体を与えられなければ天国に住むことはできない。
永遠に続く神の国を相続するためには、栄光の体が必要です。復活は単なる希望ではなく、どうしても必要なものなのです。
次の疑問は、終末まで生き残った人はどうなるのかという点です。それに関してパウロは、次のような「奥義」を語っています。(1)終末までに眠ってしまう(死んでしまう)信者もいるが、すべての人がそうなるわけではない。中には生き残る人もいる。(3)生き残った人は、終わりのラッパが鳴ると一瞬のうちに栄光の体に変えられる。つまり、眠った(死んだ)信者には復活の体が与えられ、生き残った者は生きたまま変えられるということです。(4)「終わりのラッパ」とは、旧約聖書にある秋の例祭の第一番目「ラッパの祭り」と関係があります。この日には、ラッパ(角笛)が吹き鳴らされました。ラッパの祭りは、教会の携挙を予表しています。クリスチャンたちは、ラッパの音とともに天に引き上げられます。これは、教会時代の終わりに起こる出来事です(Iテサロニケ4:13~18参照)。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(56節)とあります。(1)恐ろしいのは、死そのものではなく、罪の赦しを受けないままで迎える死です。未信者が迎える死は、罪という「とげ」を持ったままの死です。(2)人を罪に定める力は、律法にあります。律法は良いものですが、それが人を罪に定めるのです。(3)しかし、感謝すべきことに、私たちはイエス・キリストの贖いの業によって罪から解放され、復活の日の勝利を約束されました。クリスチャン生活の希望と動機は、まさに復活の確実性にあります。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。死のとげである罪は、すべて取り去られたことを感謝します。私もまたパウロとともに、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と死への勝利宣言をします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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