14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
前回は、神の選びについて学びました。パウロは明確に、神の選び(予定説)を教えていますが、人間の側からは、それに対する疑問が湧いてきます。この点では、パウロの時代の人たちも、現代人も、さほど変わりません。しかし、「予定説」のような難解な教理に向かうときに要求される態度は、「謙遜」です。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─【主】の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザ55:8〜9)
パウロは、この手紙の読者が発する質問を想定しています。「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか」。(1)「それでは、どういうことになりますか」とありますが、パウロは、反論するための質問を出すときは、こういう言い方をよくします。(2)なぜ人間は、「神の選び」が不正(不義)であると感じるのでしょうか。以下のような理由が考えられます。①人間の性質や行為に関係なしに、神の選びがあるというのは、「えこひいき」である。②イスラエルの中に少数の選ばれたレムナントが存在するということに関しても、なぜ少数の人だけが選ばれるのか。③ヤコブは選ばれたがエサウは選ばれなかった。これは不公平ではないか、などなど。
この質問に対するパウロの回答を2回に分けて学びます。今回は、14節bだけを見てみましょう。「絶対にそんなことはありません」(メイ・ゲノイト)。これは、ギリシア語で最も強い否定形です。つまり、神に不正はないということです(次回、その理由が説明されます)。
神の主権と人間の責務の問題は、常に私たちの理性を揺さぶるテーマです。結論的には、両方のことが真理として教えられていますので、両方を受け入れるしかありません。神の選びに関しては、それがなければ誰も救われないということを覚えておきましょう。また、聖書は2重予定を教えていないということも理解しておきましょう(つまり、滅びに予定されている人がいるとは教えていないということ)。すべての人は罪人です。それゆえ、神の選びがなければ救われません。私たちがイエス・キリストを信じることができたのは、背後に神の選びがあったからです。そのことのゆえに、さらに忠実に歩むことを志そうではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたが私を選んでくださり、私は救われました。どうか、イエス・キリストの内に留まり続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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