9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、
10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
次に、割礼に関する説明が入って来ます。その理由は、想定されるパリサイ人からの批判に答えるためです。パリサイ派神学では、割礼は救いの保証です。考えられるパリサイ人からの批判とは、「アブラハムは割礼を受けたではないか。割礼は、行い(つまり業)なのではないか」というものです。パウロは、この批判に答えます。
彼は、アブラハムが義とされたタイミングに光を当てます。「どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです」(10節)。(1)アブラハムが信仰によって義とされたのは、創世記15章です。この時彼は、無割礼でした。(2)その彼が割礼を受けるのは、創世記17章になってからです。(3)つまり、割礼と義認とは無関係なのです。さらに創世記15章と17章の間には、14年の歳月が流れています。その14年の間、アブラハムは無割礼の状態で義とされていました。
「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(11 〜 12節)。(1)アブラハムは、無割礼の者の父となるために、無割礼の時に義とされました。無割礼の者とは、異邦人のことです。(2)さらに、アブラハムは割礼のある者の父となるために、自らも割礼を受けました。割礼のある者とは、ユダヤ人のことです。つまり、割礼のあるユダヤ人たちもまた、信仰によって義とされるということです。(3)割礼は、アブラハム契約の「しるし」(11節)です。そして、アブラハム契約は無条件契約です。人間の努力によって、この契約に何かを付加できるものではありません。(4)「証印」(11節)とは、内面の変化を外面的に表すものです。割礼のような外面的儀式が、内面を変化させるわけではありません。ちょうど、洗礼という儀式が人を救うわけではないというのと、同じことです。私たちも、信仰によって新生していることを神に感謝しようではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。割礼があってもなくても、それは問題ではありません。きょうもまた、「信仰のみ」の原則を確認させていただきました。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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