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ローマ人への手紙4:6 〜 8

6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

8 主が罪を認めない人は幸いである。」

アブラハムと義認(2)

ダビデの場合はどうか

アブラハムの義認を論じている箇所で、突然ダビデが登場します。パウロがダビデの例を出してきた理由は何でしょうか。(1)ここでパウロは、「アブラハムは信仰によって義とされた」という主張に対して、ある反論が起こってくることを想定し、ダビデの体験を取り上げています。その反論とは、「アブラハムの時代、モーセの律法はまだなかった。もしモーセの律法がすでに存在していたなら、アブラハムは律法を行うことによって義とされていたと考えられないのか」というものです。(2)そこでパウロは、律法の時代に生きたダビデを取り上げることにより、ダビデもまた「律法とは別の方法」で義とされたことを証明します。それがダビデを登場させた理由です。(3)さらに、ユダヤ的論法に注目する必要があります。ラビたちは、律法(トーラー)の教えを論証する際、預言書か諸書から引用し、自らの議論を補強しました。パウロはそのラビ的論法に従っています。彼が引用しているのは詩篇32篇ですが、詩篇は「諸書」の中に含まれます。

詩篇32:1〜2の引用

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。【主】が、とがをお認めにならない人、その霊にあざむきのない人は」とあります。(1)この詩篇の背景として考えられるのは、バテ・シェバ事件です。この事件で、ダビデは姦淫かんいんと殺人の罪を犯しました。この32篇を51篇の続篇として読むと、ダビデが体験した「悔い改め」と「罪が赦される喜び」がよく理解できます。(2)彼は、「【主】が、咎をお認めにならない人」という表現を使っています。これは律法による義ではなく、信仰による義です。もし律法による義を求めたとするなら、ダビデは律法に違反したのですから、滅びるしかありません。(3)要約すると、ダビデは「律法の時代」の人であるが、信仰によって義とされると証言している、ということになります。
信仰義認の原則は、旧約聖書の時代からありました。律法が与えられる前の時代(アブラハムが代表)も、律法が与えられて以降の時代(ダビデが代表)も、人は信仰によって救われるという原則は変わりません。私たちもまた、この原則によって救われました。救いの条件として、それ以外のものを付け加えるのは、聖書の真理に反する行いです。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。律法を行うことによって御前に義とされる人はいません。徹頭徹尾、「信仰のみ」の原則に立ち続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ダニエル書1~2、ペテロの手紙 第一3