サポートする

出エジプト記36:8 〜 19

8 仕事にたずさわっている者のうち、心に知恵のある者はみな、幕屋を十枚の幕で造った。撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でケルビムを織り出した。

9 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とした。

10 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また、他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせた。

11 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつけた。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにした。

12 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにした。

13 そして、金の留め金五十個を作り、その留め金で、幕を互いにつなぎ合わせて、一つの幕屋にした。

14 また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作った。その幕を十一枚作った。

15 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とした。

16 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、

17 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつけた。

18 また、青銅の留め金五十個を作り、その天幕をつなぎ合わせて、一つにした。

19 また、天幕のために、赤くなめした雄羊の皮のおおいと、じゅごんの皮でその上に掛けるおおいとを作った。

幕屋の幕の制作

繰り返しの効用

出エジプト記には、同じ説明の繰り返しが多いように感じられる。つい飛ばして読みたくなるが、聖書のことばに無駄はない。一見しただけでは無味乾燥に思えるような繰り返しの箇所にも、大切な意味がある。たとえば、この箇所は幕屋の幕が制作されたという記事だが、これは出エジプト26:1 〜6 で読んだ内容とよく似ている。(1)出エジプト26:1 〜6 は、幕屋の幕をいかに制作すべきか、という神からの命令である。(2)出エジプト36:8 〜19 は、その命令をイスラエルの民が実行したという記事である。つまりこの箇所は、神の命令の成就なのである。(3)同じ内容が繰り返されているかのように見えるが、それらの箇所は、命令と成就という関係にある。繰り返されることによって、イスラエルの民が神の命令を忠実に守って幕屋を制作したことを表現している。
神を礼拝するためには、神が命じた方法でそれを行う必要がある。出エジプト記に出て来る繰り返しの記述は、その真理を私たちに教えている。聖書の中に、意味のない部分はない。意味がないように見えるのは、私たちの理解力が不足しているからである。

幕屋の幕とその上に掛ける天幕

(1)幕屋の幕について復習してみよう。この幕は、亜麻布の撚り糸(青色、紫色、緋色)で織られたもので、10 枚あった。それを5 枚ずつのセットにして、幕屋を作った。幕には、ケルビムの刺繍が施されていた。このような指示に応えるためには、非常に高度な技術と芸術的センスとが要求された。完成した幕は、非常に美しいものであったことだろう。(2)幕屋の上に掛ける天幕(出26:7 〜14の成就)は、山羊の毛で作られ、11 枚あった。山羊の毛は、天幕に用いられる最高の素材である。この幕で幕屋を覆い、その上にさらに、赤くなめした雄羊の皮と、じゅごんの皮とを乗せた。亜麻布の幕や山羊の毛の幕の第一義的目的は、雨露あめつゆをしのぎ、光を完全に遮断しゃだんすることにあった。
これらの幕から学ぶべき教訓は、これである。「聖いものとそうでないものとを明確に区別する必要がある」。聖書は、イエス・キリスト以外に救いはないと主張する。そのメッセージは、相対的世界観に立つ現代人には歓迎されない。「キリスト教は独断的だ」という批判は、あちこちから聞こえて来る。しかし聖書は、神に近づく方法は一つしかないと教えている。人間を恐れず、神が意図された方法で聖書を読むことを学ぼう。イエス・キリストだけが、救いの道である。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。きょうも幕屋の中にキリストの型があることを学びました。救いの道は、イエス・キリストしかないことを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エゼキエル書20~21、ガラテヤ人への手紙5