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出エジプト記32:1 〜 6

1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」

3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。

4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」

6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

金の子牛事件(2)

鋳物の子牛

民から金を受け取ったアロンは、それで金の子牛を鋳造した。(1)子牛を偶像神にした理由を考えてみよう。雄牛は、力、権威、豊穣ほうじょうなどを象徴する偶像である。ではなぜ、雄牛ではなく子牛なのだろうか。二つの可能性が考えられる。アロンは雄牛を造ったが、モーセは軽蔑の意味を込めて子牛と書いた。アロンは、少しでも罪が軽くなるように、子牛にした。おそらく後者が正解であろう。(2)それを見て、民は叫んだ。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」(新改訳2017)。ここで「神々」という言葉(複数形)が出て来るのはなぜか。金の子牛は一つしか造られていない。恐らく、「神々」とは、真の神とその神を象徴する金の子牛の両方を指しているのであろう。(3)彼らは、エジプトで経験した10 の災害(すべて【主】がもたらされた)も、エジプトの偶像が無力であったことも、忘れたのである。

祭壇の前での礼拝

「アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。『あすは【主】への祭りである。』 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」。(1)アロンは、完全にリーダーシップを放棄している。民の願い通りに動くリーダーは、真のリーダーではない。(2)偶像礼拝には、道徳的堕落が伴う。彼らは、全焼のいけにえを捧げ、和解のいけにえを供え、飲み食いし、立っては、戯れた。「戯れた」という動詞には、性的意味が含まれている。創世記26:8 には、「 イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫あいぶしているのが見えた」とある。「愛撫」と訳されている言葉は、「戯れる」という言葉と同じである。
偶像礼拝(金の子牛)と真の礼拝(幕屋建設)を対比させてみよう。(1)金の子牛事件では、聖職者アロンが民に命じて捧げ物を出させた。また、聖職者アロンが金の子牛を造り、民がそれを礼拝した。(2)幕屋建設では、すべての民が自発的に捧げた。その結果、あり余るほどのものが捧げられた。幕屋建設には、聖霊の賜物を受けた制作者が立てられ、多くの者がそれに協力した。真の礼拝は、【主】の恵みに対する自発的応答でなければならない。すべての神の民がその礼拝に参加するのである。私たちの礼拝が、心から出たものになっているかどうか、吟味しようではないか。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか私が、あなたの恵みに応答する真の礼拝をささげることができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エレミヤ書32~33、コリント人への手紙 第二4