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出エジプト記32:1 〜 6

1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」

3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。

4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」

6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

金の子牛事件(1)

民の要求

この箇所を2 回に分けて学ぶ。この箇所は、出エジプト24:18 とのつながりで読む必要がある。「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた」。(1)40 日間のモーセの不在は、民にとっては余りにも長かった。モーセがシナイ山に上って以降の状況は、麓にいた民には分からなかった。(2)彼らは、モーセが手間取っていると感じた。そして、神が民に必要なもの(幕屋)を用意しておられる間に、民の心は神から離れた。神の時を待つことができずに自分の計画に走るのは罪である。このことには先例がある。サウルの罪(自分でいけにえをささげた罪。1 サム13:8 〜 9)やイスラエルの民の罪(イザ30:15 〜 18)を思い起こそう。(3)イスラエルの民は、自分の手で安心を勝ち取ろうとした。つまり、神の臨在を人間的に造り出そうとしたのである。彼らは愚かにも、自分たちを守り導いてくれる神を自分の手で造ろうとした。(4)彼らは、神が立てたリーダーであるモーセを軽蔑した。「あのモーセという者」(this fellow Moses)と言い放っている。

アロンの対応

アロンは、民の決意が固いことを見て、こう言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい」。(1)当時の中近東の人たちは、男女ともに金の耳輪をしていた。民が所有していた金の耳輪は、エジプトから受け取った貴重な品である。(2)民はただちに応答した。「民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た」。不思議なことに、人間というものは、偶像礼拝のためならすぐに行動を起こす。偶像礼拝のためには、犠牲を惜しまないのである。
現代人の感覚では、金の子牛を造ることは必ずしも悪いこととは思えないという意見もあり得るだろう。自力で心の平安を得ようとすることが、なぜそんなに悪いことなのかと思う人がいるかもしれない。このような感覚は、人間的価値観から出ている。そして、神の視点と人間の視点は、どこまで行っても平行線を辿たどる。偶像礼拝の本質を要約すると、次の3 点になる。神の領域と物質の領域がつながっているという誤解。儀式や形式によって、神の領域に影響を与えることができるという誤解。神でない神を拝むことから来る道徳的堕落。
私たちに関しては、自らの身と心を偶像礼拝から遠ざかることを学ぼう。偶像礼拝は愚かであるばかりか、危険なことでもある。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。真の神を知る者とされたことを感謝します。どうか私を偶像礼拝から遠ざけてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エレミヤ書30~31、コリント人への手紙 第二3