4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
9 耳のある者は聞きなさい。」
前回は、「神の国」の5 つの側面について学んだ。その第5 番目が「奥義としての王国」であった。この王国は、ユダヤ人がイエスを拒否した時からイエスの再臨までの期間に、地上に存在する神の国のことである。この中には、信者も未信者も含まれている。13 章に出てくる一連のたとえ話は、「奥義としての王国」がどのようなものであるかを解説するためのものである。その中で最も重要なのは、種蒔きのたとえ話である。このたとえ話が理解できたなら、それ以外のたとえ話は、自然に分かるようになる。
種蒔きのたとえは、少なくとも以下の4 点を教えている。(1)「奥義としての王国」の時代に起こることは、種まきの仕事にたとえることができる。種を蒔けば、その中に宿っているいのちが自然に芽をふく。福音の伝達もそれと同じである。福音の内容は、きわめて単純なものである。① イエスが私たちの罪のために死なれたこと、② 墓に葬られたこと、③ 3 日目に甦られたこと。それを信じるなら、その人は霊的新生を体験する。福音の中にはいのちがある。(2)種が蒔かれる土地には、さまざまなものがある。土地は、福音を聞く人の心を表している。(3)福音の伝達を妨害する力が働く。この世、サタン、肉の思いなどが、妨害する力である。(4)福音の種に対する反応もさまざまなものがある。
福音の種に対して、4 種類の反応が起こる。(1)道端に落ちた種とは、「不信仰」という反応である。(2)土の薄い岩地に落ちた種とは、「信仰が成長しない人」の反応である。(3)いばらの中に落ちた種とは、「知的理解があっても、それを実生活に適用できない人」の反応である。(4)良い地に落ちた種とは、「実をつける人」の反応である。13 章の34 節には、「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった」とある。イエスは不信仰な人の目から真理を隠すために、たとえ話でお話しになった。「種蒔きのたとえ」は、そのような文脈の中で読まれなければならない。
ユダヤ人たちがイエスを拒否して以来、今も「奥義としての王国」が継続している。蒔かれる福音の種は単純であるが、それを受け止める人々の反応は異なる。福音のメッセージを受け入れ、30 倍、60 倍、100 倍の実を結ぶ人は幸いである。神のみことばを心に留め、きょうもこの世に出て行こう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私の人生を、豊かな実を結ぶ人生に変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
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