46 イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。
47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
50 天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
イエスの母と兄弟たちは、イエスの頭がおかしくなったのではないかと心配になり、彼を連れ戻そうとして戸口に立っていた。この時点では、家族もまたイエスを理解していなかったのである(ヨハ7:5 参照)。彼らは、イエスに関するうわさを聞き、心配になって駆けつけて来た(マコ3:21)。
家族が戸口にいることを聞いたイエスは、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」と答え、さらに弟子たちの方を向いて、「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と語られた。この箇所から、イエスは親や兄弟たちを粗末に扱ったという結論を出してはならない。ここには、霊的に重要な真理が隠されている。
パリサイ人たちは、血のつながりを重視していた。彼らの神学では、ユダヤ人はアブラハムの子孫であるという理由だけで、天の御国に入れるとされていた。イエスのことばは、その教えに対する反論である。(1)イエスは、パリサイ派の神学を否定された。つまり、人はアブラハムの子孫だからという理由で、天の御国に入るのではないということである。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」という問いかけは、血縁関係が救いの条件ではないことを教えている。(2)人は霊的新生によって神の家族の一員となる(ヨハ3 章のニコデモとの会話を参照)。これがイエスの教えである。
旧約聖書のホセア1 ~3 章を見ると、イスラエルの民は「ロ・アミ」と呼ばれているが、これは、「わたしの民ではない」という意味である。イスラエルの民は本来、神の民(アミ)であるが、不信仰のゆえにロ・アミ(わたしの民ではない)と呼ばれるようになった。しかし、その彼らも悔い改めるなら、再び「アミ」と呼ばれるようになる。血縁関係ではなく、霊的な関係こそ重要である。
新約聖書では、パウロがこのホセアの預言を異邦人の救いに適用している(ロマ9:25 ~26)。本来は神の民でなかった私たち異邦人も、信仰によって「アミ(わが民)」と呼ばれるようになった。私たちには、天国に入れるという確信はあるだろうか。もしあるとしたら、それは信仰に基づく確信なのか、それとも希望的観測なのか。神が用意された方法によらなければ、だれも天国に入ることはできない。神が用意された唯一の方法は、イエスを救い主として受け入れることである。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。信仰によって、私は神の家族の一員とされました。その恵みを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ゼカリヤ1~2、テモテへの手紙 第一4
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