14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
パウロは、「神の予定」について読者が発するであろう質問を想定し、それに答えています。今回は、この箇所の2回目の学びです。
パウロはこう言います。「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません」(14節)。さらに、こう続けます。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(15 〜 16節)。(1)これは、出エジプト記33:19からの引用です。その文脈はこうです。モーセは大胆にも、神の栄光を見ることを願いました。ユダヤ人の感覚では、神の栄光を見ることは死を意味します。その時主は、モーセを岩の裂け目に入れ、ご自身の手によって彼を守られました。その結果、モーセはシャカイナグローリー(神の栄光)の残影(神の後ろ姿)を見ることができました。(2)この箇所は、「神には自分の御心を行う権利がある」ということを教えています。イスラエルの中からレムナントだけが選ばれたのは、神の主権によることです。それに対して、人間が不平を述べることは許されません。
次にパロの例です。「聖書はパロに、『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(17〜18節)。(1)これは、出エジプト記9:16からの引用です。あの歴史的状況の中で、あのパロが立てられました。聖書の視点からは、歴史の中に神の介入があったということです。(2)パロの選びには、2つの目的がありました。一つは、神の力を示すためです。パロがかたくなになったので、10の災害がエジプトに下りました。もう一つは、御名を全地に告げ知らせるためです(ヨシ2:8〜11参照)。(3)以上の2つの例からの結論はこうです。①モーセはあわれみを受け、パロはかたくなにされた。②だからと言って、聖書はパロの責任を免除しているわけではない。彼自身がかたくなになった(最初は出7:13〜14、最後は9:34〜35)。③すべては神の主権によることである。
神が歴史を導いておられることを覚え、勇気をいただきましょう。神の許しがなければ、何一つ起こりません。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたの主権の前にひれ伏します。私の人生があなたの御手の中で完全に導かれていることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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