11 神にはえこひいきなどはないからです。
12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。
14 ─律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。─
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。
今パウロは、文化的異教徒に弁解の余地がないこと(2:1)を論証しようとしています。その内容が、神の裁きの3つの原則です。きょうの箇所では、神の裁きの原則3 が示されます。その内容は、神の裁きは、「えこひいきなし」に行われるというものです。
「神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」(11 〜 12節)とあります。(1)神には二重基準はありません。この聖句は、イスラエルの選びを否定しているのではありません。これは、義なる裁き主である神が行う裁きは、公平であることを教えています。
異邦人に対する裁きの基準。(1)異邦人は、「律法なしに罪を犯した」人たちです。つまり、モーセの律法なしに罪を犯したということです。(2)従って、モーセの律法によって裁かれるのではありません。(3)彼らに与えられている光(自然法)によって裁かれるのです。良心は彼らに与えられた光です(15節)。いかなる文明においても、良心の存在が認められます。たとえば、いかなる文明においても、殺人は罪とされています。(4)「滅び」とは永遠の死です。これは、永遠のいのちと対立する概念です。
ユダヤ人に対する裁きの基準。(1)ユダヤ人は、「律法の下にあって罪を犯した」人たちです。モーセの律法を知っていながら、罪を犯したのです。(2)従って、モーセの律法によって裁かれます。
「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです」(16節)。(1)神は今、忍耐しておられますが、裁きの日は確実に来ます。(2)その日、キリスト・イエスが裁き主として任命されます。(3)裁き主であるキリスト・イエスによって、人々の隠れたことが明らかになります。
絶望のあとに来る希望について考えてみましょう。パウロは、(1)異教徒の罪、(2)文化的異教徒の罪、次回は、(3)ユダヤ人の罪を指摘します。(4)以上のことは、絶望の底に向かってらせん階段を下りて行くようなものです。しかし、絶望の底に立つのが十字架です。(5)人には、福音により新生する可能性が残されています。それは人の心に良心が残されているからです(14 〜 15節)。それゆえ、時が良くても悪くても福音を伝え続けようではありませんか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私をあなたの恵みの配達人としてお用いください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
ヨブ記31〜33、ヘブル人への手紙3
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