18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
パウロのメッセージの中心は、キリストの十字架でした。神が人となり、罪人を救うために十字架についてくださった。これが、「十字架のことば」の内容です。これを伝えると、聞く人々の内に二つの反応が生まれました。(1)それは、滅びに至る人々には愚かに聞こえます。(2)しかし、救いを受ける人々には、神の力となります。
当時、知恵を誇っていた人々が3種類いました。(1)「知者」とは、ギリシヤ哲学に通じ、物事を論理的に推量できる人々でした。(2)「学者」とは、律法学者のことで、旧約聖書に精通し、その知識を誇っていた人々でした。(3)「この世の議論家」とは、それ以外の論争好きな人々でした。(4)しかし神は、これらの人々の知恵によってではなく、「宣教のことばの愚かさ」によって、信じる者を救おうとされました。それを証明するために、パウロはイザヤ書29:14を引用しています。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
次にパウロは、自分の宣教方法について語っています。(1)ユダヤ人はしるしを要求しました。「しるし」とは、イエスがメシヤであるという「しるし」です。もしイエスがメシヤなら、すでに地上に神の国が成就しているはずです。しかし、イエスは十字架につけられて死にました。十字架のメッセージは、ユダヤ人にとっては、「つまずき」だったのです。(2)ギリシヤ人は「知恵」を追求しました。彼らにとっては、十字架で死んだ罪人イエスが救世主であるというメッセージは、あまりにも愚かなものでした。(3)しかしパウロは、人々の考え方に迎合したメッセージではなく、「十字架につけられたキリスト」だけを宣べ伝えました。
あなたは、「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)というパウロの言葉を、どのように聞きますか。人は、十字架のキリストを信じることなしに救われることはあり得ません。もう一度、最も大切なメッセージとは何であったかを思い起こしましょう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。この世がいかに軽蔑しようとも、私は「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えます。どうか私を力づけてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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