6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。─万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる─わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。
7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。
きょうの箇所も対話形式で書かれています。まず、【主】の言葉が語られます。「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。─万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる─わたしの名をさげすむ祭司たち」(6節a)
(1)霊的指導者である祭司たちにこそ問題がありました。(2)イスラエルは「神の子」とされていました(出4:22、イザ1:2、63:16、エレ31:9、ホセ11:1など参照)。またイスラエルは、「【主】のしもべ」でもありました(イザ41:8参照)。もしそうであるなら、イスラエルが父であるお方を敬い、主人であるお方を恐れるのは当然のことです。しかし彼らは、逆に神の名をさげすんでいました。(3)祭司たちは、「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」(6節b)と言い張りました。自らの隠れた罪について鈍感になっていたのです。罪人の特徴は、罪の感覚が麻痺していることです。
「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」(6節b)という祭司たちの応答に対して、神の糾弾の言葉が語られます。「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている」(7節)
(1)祭司たちは、祭壇の上に汚れたパンをささげながら、「どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか」と質問をしています。(2)「パン」と訳された言葉は、「食物」、「肉」などとも訳せます。これは、祭壇の上にささげる動物のいけにえのことです。(3)「汚れた」とは、儀式的な汚れを指しますが、そういういけにえをささげていたのは、祭司たちの心に問題があったからです。(4)それでも祭司たちは、「どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか」と質問しています。なんという厚顔無恥な態度でしょうか。(5)【主】は祭司たちのそういう態度を断罪し、「『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている」(7節b)と言われます。
心の中にあるものが行動となって現れます。今私たちも、自らの心の状態を聖霊によって吟味していただきましょう。父であり主人であるお方に喜ばれる生き方を志そうではありませんか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたは父であり、主でもあります。心からあなたを敬い、あなたを恐れる者となることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
エレミヤ書42~43、詩篇65~66
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