6 私は何をもって【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
7 【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
前回に続いて、「【主】の法廷」の学びです。5章までと異なり、6 ~ 7章は対話形式で書かれていますので、話し手が誰であるかを理解することが大切です。
6 ~ 7節は、イスラエルの民が語っている言葉です。(1)【主】の糾弾のことば(3~5節)を聞いて、ついにイスラエルの民は自らの罪を認識し、それを告白します。しかし、彼らの罪の認識はきわめて表面的なもので、不十分です。それが彼らの言葉によって明らかになります。(2)彼らは、「私は何をもって【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか」と自問自答しています。これは罪を認識した言葉ですが、彼らの頭の中にあるのは外側の行為だけです。(3)彼らは、【主】にささげるいけにえの可能性を数え上げています。「全焼のいけにえ」、「一歳の子牛」、「幾千の雄羊」、「幾万の油」などがそれです。(4)ついに彼らは、「私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか」とさえ語っています。彼らの頭の中には、イサクをささげたアブラハムのことがあったのでしょう。
イスラエルの民は、神の義を完全に誤解していました。いけにえは、モーセの律法が要求するもので、それ自体は悪いものではありません。しかし、内面的な悔い改めと義がない状態で、いくらいけにえをささげても、それは神に喜ばれるものとはなりません。内面的な義+外面的な行為が、神に受け入れられるものです。
8節で預言者ミカは、【主】の思いを代弁しています。ミカ書の中でも極めて重要な聖句ですので、声に出して読んでみましょう。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」。(1)「公義を行い」とは、モーセの律法を実行することです。それも正しい動機で実行することです。信仰と悔い改めの伴わない外面的な行為は、神に受け入れられるものではありません。詩篇50篇、イザヤ1:10 ~ 17などは、そのことを教えています。(2)「誠実を愛し」とは、隣人愛の実践です。律法に従って歩んでいるなら、その人は自然に隣人愛を実践するようになります。(3)「へりくだってあなたの神とともに歩む」とは、日々神との交わりを楽しむということです。
ミカ6:8の教えは、マタイ22:37 ~ 40を想起させます。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」。聖書全体の教えは、この2つの愛に集約されます。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。今、ミカ書を通して聖書全体の教えの要約を見せていただきました。学んだことを実行することができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
士師記17~18、ルカの福音書16
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