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使徒の働き12:12 ~ 17

12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。

14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。

15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。

16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。

17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

主の御業の不思議

なぜヤコブは殺され、ペテロは解放されたのか

先に進む前に、難問にチャレンジしてみよう。「なぜヤコブは殺され、ペテロは解放されたのか」。人間的には、この問いに対する答えはない。
(1)私たち人間には、これが最善だという考えが常にある。そして、その最善に基づいて祈りを積み上げる。私たちは、「ペテロが助かったのなら、神はヤコブも助けることができたはずだ」と考える。また、「ヤコブが長生きしていたなら、より良い奉仕ができたはずだ」とも考える。しかし、長く牧師として奉仕をしていると、死に関する不思議を感じない訳にはいかなくなる。信仰とは無関係に、ある人は若くして死に、ある人は長生きする。また、霊的指導者が、業半ばにして天に召されることもある。
(2)死の問題に関しては、神の視点から見るしかない。神は、時には不可解に見えるような方法で働かれる。その「不可解」は、人間の視点から見た不可解である。神の性質は不変である。神は常に、愛であり、義であり、聖である。しかし私たちが信じている神は、私たち人間が考える「最善」に縛られてはおられない。人生のなぞに直面した時には、神の主権を認めるしかない。神の主権を認めるとは、神がすべてを最善に導かれることを信じることである。
「私は感謝します。あなたは私に、くすしいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたにかくれてはいませんでした。あなたの目は胎児たいじの私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」(詩139:1418

きょうの祈り

聖なる神よ。あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。しかし、あなたはすべてのことを最善に導かれると信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨブ記40~42、ヘブル人への手紙7