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使徒の働き8:1 ~ 4

1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

2 敬虔けいけんな人たちはステパノをほうむり、彼のために非常に悲しんだ。

3 サウロは教会をらし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々にろうに入れた。

4 他方、散らされた人たちは、みことばをべながら、巡り歩いた。

サウロによる教会の迫害(2)

散らされた人たち

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」。迫害は好ましくないものだが、それによって宣教が進むというのは、教会史の中に見られるパターンである。この箇所で起こっていることを神の視点から見ると、教会は敗北したのではなく、拡散かくさんしたのである。散らされた人たちは、福音を伝える対象を、ユダヤ人からサマリヤ人や異邦人にまで拡大していく。いよいよ、主イエスが予告しておられた「種蒔たねまきの時代」が到来したのである。

迫害と「種蒔く人のたとえ」の関係

教会時代は、奥義おくぎとしての王国の時代である。その特徴は、福音の伝達が広く行われることである(マコ4:3 ~ 23、マタ13:3 ~ 23、ルカ8:5 ~ 18 参照)。ユダヤ教には、宣教師はいない。ユダヤ教では、異邦人がユダヤ人のもとに教えをいに来るのであって、その逆ではない。それとは対照的にキリスト教は、その最初から伝道的である。主イエスは、「種蒔く人のたとえ」を通して、教会時代になると、福音の種が蒔かれ、それに対して4 種類の応答が起こることをあらかじめ教えられた。
「種蒔く人のたとえ」の意味を考えてみよう。(1)種とは、みことばのことである。種蒔く人が誰かは解説されていないが、それは容易に推察すいさつされる。イエスご自身、イエスの代理人としての弟子たち、そして、奥義としての王国に住むすべての信者たち。(2)4 つの土地は、4 種類の応答を象徴しょうちょうしている。道ばたは、福音を聞いても信じないことを選ぶ人たち、福音は自分の生活には無関係であると考える人たちである。岩地は、信じるが、みことばに根差した信仰を持たない人たちである。彼らは、みことばの乳からかたい肉に進もうとしない人たち、困難や迫害が来ると容易につまずく人たちである。いばらの地は、信じるが、霊的勝利を自分のものにできない人たち、信仰生活とこの世の生活が別区分になっている人たちである。良い地は、みことばに根差した信仰を持つ人たちである。彼らの存在は、周りの人たちに良い影響を与えて、多くの魂が救いに導かれる。
今は、種蒔きにいそしむべき時である。蒔かれた福音の種は、芽を出す場合もあれば、そうでない場合もある。しかし、一喜一憂いっきいちゆうする必要はない。結果はすべて神にゆだねればよい。私たちの責務は、福音の種を蒔き続けることである。

きょうの祈り

天の父なる神さま。今は福音の種が蒔かれる時代です。どうか、私を種蒔く人として用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エゼキエル書22~23、詩篇73~74