41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」(44 ~ 45 節)。(1)初代教会の特徴の一つが、物の共有である。①裕福な者たちは、貧しい兄弟たちのために自分の持ち物を売って金に換え、それを分配していた。②この行為は、モーセの律法の実践である(申15:4 参照)。③キリストの再臨は近いという意識が、物の共有という考え方の背後にあったと思われる。(2)以上のことは、歴史上実際に起こったことの記録であって、普遍的に適用すべき教えではない。①この習慣は、エルサレム教会だけのものであった。使徒の働きの中で、他の教会がこの習慣を採用したという記録はない。②この習慣は、最初の数年で終わった。飢饉が襲って来ると、エルサレム教会はたちまち貧しい教会となった(使11:28 ~ 29、24:17、ロマ15:26 ~ 27、ガラ2:10 など参照)。③しかし、この習慣から学ぶべき適用は今もある。隣人愛の実践の一つは、富の分かち合いである。
「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(46 ~ 47 節)。(1)彼らは、日々の祈りの時間に、また祭りの期間に、神殿に上っていた。エルサレムに住む敬虔なユダヤ人にとっては、神殿に上ることは当然であった。イエスをメシアと信じる信仰は、まだユダヤ教とは切り離されていなかったのである。(2)彼らは、家でパンを裂き、食事をともにし、神を賛美した。彼らは、家々を回りながら、聖餐式と愛餐式を行った。(3)彼らは、「すべての民に好意を持たれた」。この段階では、ユダヤ人社会はまだ教会を脅威とは見なしていなかった。しかし、この平和な状況はすぐに消え去る。闇は光を憎むからである。(4)「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。福音に応答するのは、人間の側の責務である。と同時に、人が救われるのは神の御業である。
教会史の最初の200 年間は、教会堂(大聖堂)ではなく、家の教会が中心であった。そこから教訓を学ぼう。教会は建物ではなく、信者の群れである。その真理を受け取るなら、あらゆる状況で伝道は可能である。伝道の可能性を自らの判断で狭めてはならない。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたの救いの御業に加えられたことを感謝します。恵みに伴う責任を果たすことができるよう助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
イザヤ書42~43、詩篇53~54
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