12 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。
13 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。
きょうの箇所では、エルサレムから田舎のほうに歩いていた二人の弟子の話が出てきます。より詳細な記録が、ルカの福音書24:13~32に出ていますので、それを参考にしながら内容を確認してみましょう。この二人の弟子は、無名でした。彼らは、エマオという村に急いでいました。なぜそこに向かって歩いていたのかはわかりませんが、イエスが死んだので希望をなくしたか、逮捕される危険を感じたか、どちらかでしょう。その両方かもしれません。(1)彼らの霊的な目は閉ざされていました。そのため、イエスがともに歩んでおられたのに、彼らにはそれがイエスだということがわかりませんでした。(2)彼らの信仰は、過去形の信仰になっていました。彼らは、「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」と過去形で、自らの信仰を語っています。(3)彼らの問題点は、十字架の意味を理解していなかったという点にあります。
あなたの信仰は、過去形になっていませんか。多くの人が、「若いころは、ああだった、こうだった」と証をします。しかし、信仰生活では「今」が大切です。かつて生きておられたイエスは、今も生きておられます。自らの霊の目が開かれ、日々キリストの命に生かされることを願い求めましょう。
二人の弟子の信仰が復活する瞬間が来ました。イエスがパンを裂かれた時、彼らの霊の目が開かれました。彼らはその手に、釘の痕を見たのでしょう。その時、道々イエスから聞いていた聖書の解き明かしが、新しい意味をもって彼らに迫ってきました。彼らは、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と語っています。彼らは早速立って、エルサレムに戻り、復活のイエスとの出会いを他の弟子たちに報告しました。彼らは、本来いるべき場所に戻ったのです。生けるキリストとの出会いを伝えずにはおれなかったのです。
あなたの心は、みことばによって燃やされていますか。日々のデボーションが、生けるキリストと出会う場になっていますか。あなたとともに歩いておられるイエスを、今認めましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私の霊の目を開いてください。どうかきょうも、生きておられるキリストとともに歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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