35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。
36 ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
きょうの箇所では、イエスのほうからパリサイ人たちに一つの質問を投げかけています。当時のユダヤ人たちは、昔生きていた人のほうが偉大で、今の人はそれには及ばないと考えていました。従って、「ダビデの子」として来られるメシアも、ダビデ王以下の存在と考えられていたのです。その結果、彼らのメシア観に二つの欠陥が生じていました。(1)メシアはダビデの再来であり、ダビデが行なったのと同じ業を行なうであろうという理解。(2)メシアは、イスラエルを政治的に解放してくれる王であるという理解。つまり、彼らのメシア観は、極めて国粋主義的なものだったということです。この偏狭なメシア観を正すために、イエスは詩篇110:1を引用して、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」と問いかけられたのです。
イエスの質問を要約すると、次のようになります。(1)メシアは「ダビデの子」である。(2)ところがダビデはそのメシアのことを、「私の主」と呼んでいる。(3)もしメシアが「ダビデの子」であるなら、ダビデはメシアのことを「私の子」と呼ぶべきではないか。
イエスの質問に、誰も一言も答えることができませんでした。それは、イエスがラビ的ユダヤ教の欠点を指摘されたからです。彼らはメシアが「ダビデの子」であることを認めていました。これはメシアの人性を認めたということです。しかし彼らは、メシアの神性は認めていませんでした。そのため、ダビデがメシアを「私の主」と呼んでいる理由が理解できなかったのです。ダビデが「私の主」と呼んだメシアは、イエスご自身のことです。イエスは十字架にかかる前に、あらゆる角度から攻撃を受け、吟味されました。そして完璧な神の小羊であることが証明されました。
誰でも、自分なりのメシア観を持っています。問題は、それが聖書的なものか、自分勝手なものかということです。もし私たちのキリスト理解が偏狭なものなら、私たちのクリスチャン生活は、神の意図するものにはなり得ません。今、イエスの栄光、力、愛、恵み、知恵の深さを思い、この方に礼拝を捧げましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスは完璧な神の小羊、ダビデの子、約束のメシアです。今、イエスは主なりと心から告白をいたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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