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ローマ人への手紙14:9 〜 12

9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

神学的土台(2)

神のさばきの座

前回は、神学者でもあり牧会者でもあるパウロが、「グレーゾーン」(日常的な事項)に関する議論を神学的高嶺たかねにまで引き上げていることを学びました。きょうはその続きで、「神のさばきの座」がテーマです。(1)互いに裁き合ってはならない理由は、やがてすべての人が神によって裁かれるようになるからです。(2)「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」10節b)とは、「終末的裁き」を指しています。「終末的裁き」の座に立つという認識が、信仰生活の土台となります。
「終末的裁き」を教えている聖句を次に上げてみます。(1)「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じてむくいを受けることになるからです」(2コリ5:10)。ここでは「キリストのさばきの座」という言葉が使われていますが、「神のさばきの座」と同じ意味です。キリストだけが私たちの唯一の裁き主です。(2)「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭めいりょうになります。…その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(1コリ3:1215

キリストのさばきの座

「キリストのさばきの座」で行われる裁きは、救われているかどうかを判定する裁きではありません。(1)イエスを救い主として信じた時点で救いは確定しており、それが取り去られることはありません。(2)この裁きは、信者としてどのように神に仕えたかを評価する裁きです。目的は、信者の報奨ほうしょうを決定することにあります。(3)もし信者としての生活が「火によって試されても残る建物」であるなら、その人は大きな報いを受けます。しかし、「火によって焼け落ちる建物」であるなら、報いを受けることはできません。「その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」とは、かろうじて救われる状態を言います。
終末的裁きが必ず来ることを知ったなら、日々の生活内容が変化するはずです。私たちは、裁く側ではなく、裁かれる側に立つことになるのですから、互いに裁き合うことを止めるべきです。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。「キリストのさばきの座」で私の人生が評価されることを知りました。その時を楽しみに、きょうも神と人とに仕えます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨシュア記21~22、ルカの福音書9

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