9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
聖書が明確に指示していない「グレーゾーン」についての学びが続いています。「互いに裁き合わない」という勧告は、「グレーゾーン」に関するものです。パウロは、あいまいな事項に関しては、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」と教えました。実に単純明確な勧告です。パウロは神学者です。そのことは、ロマ書1〜11章の論考によって知ることができます。と同時に、彼は牧会者でもあります。ロマ書12章以降の内容は、そのことを雄弁に物語っています。(1)「神学のない礼拝はなく、礼拝のない神学もない」。同じような意味で、「神学のない実践はなく、実践のない神学もない」とも言えます。(2)きょうの箇所でパウロは、「グレーゾーン」(日常的な事項)に関する議論を、神学的高嶺にまで引き上げています。神学的思索が、実際の行動に結びつくことを覚えましょう。
「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか」(9〜10節a)。(1)パウロは、キリストの死と復活が、信者の実践の土台になると考えています。(2)キリストは、その死と復活によって、すべての人の主となられたのです。「死んだ人」とは、すでに死んだ人のこと、「生きている人」とは、この時点で、まだ生きている人のことです。(3)この2つの言葉を使って、パウロは、ローマ教会の中にあったすべてのグループの人々に語っています。キリストは、死と復活を通して、すべての信者の主となられたと。(4)「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか」とは、「信仰の弱い人」への勧告です。彼らには、自由に振る舞っている「信仰の強い人」を裁く癖がありました。(5)「また、自分の兄弟を侮るのですか」とは、「信仰の強い人」への勧告です。彼らには、自らの行動に制限を加えている「信仰の弱い人」を侮る癖がありました。
「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」(10節b)。これもまた、互いに裁き合ってはならない理由です。キリストだけが、私たちの唯一の裁き主です。私たちは、いかなることについても、早まった裁きをしてはなりません。キリストが裁かれるからです。「神の裁きの座」については、次回詳細に学びます。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。キリストだけが、私たちの唯一の裁き主です。そのことを覚え、互いに裁き合うことから解放されますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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