1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ローマ教会にあった問題に関して、パウロはこう勧告しています。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません」(1〜2節)。(1)「信仰の弱い人」とは、自由に振る舞うことに良心の呵責を感じている人のことです。特に、食事の問題で良心の呵責を感じていたようです。その人たちは、肉を断ち、野菜しか食べていませんでした。(2)それには、2つの理由が考えられます。一つは、偶像にささげられた肉が市場で売られている可能性です。信者にとっては、偶像礼拝との関わりを断ちたいと願うのは当然のことです。もう一つは、血抜きをしない肉が売られている可能性です。これは、主にユダヤ人信者が感じる恐れです。(3)それに対して、「信仰の強い人」とは、キリストにある自由を満喫し、大きな束縛を感じることなしに生きている人のことです。主に異邦人信者がこの分類に入ります。(4)弱い人、強い人の区分は、大まかなグループ分けです。この用語の背後には、「信仰の強い人」になるのがいいとのニュアンスがあります。パウロは自分自身を、「信仰の強い人」に含めています(ロマ15:1)。
「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(1節)。この節は、「弱い人」に強調がある構文となっています(この言葉が、文の最初に出てくる)。この聖句は、「信仰の弱い人を交わりの中に歓迎しなさい」と教えています。ただし、その人の考え方を修正しようという動機で迎えてはなりません。私たちの使命は、あるがままでその人を受け入れることです。要するに、どちらでもよいことで議論するな(言い争うな)、というのです。
このような箇所を基に、すべての裁きを否定することは聖書的ではありません。裁きが必要な時と、裁いてはいけない時があることを認識する必要があります。(1)マタイ18章には、教会による裁きの手順が書かれています。(2)1コリント5章には、罪を犯している人への裁きが書かれています。(3)ローマ14:1〜4の文脈は、「グレーゾーン」に関する命令だということを覚えましょう。知識がない熱心さは、決してよい結果をもたらしません。
きょうの祈り
天の父なる神さま。裁きが必要な時と、裁いてはいけない時の違いを正しく認識できますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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