31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
さらに、修辞疑問文が続きます。パウロは、「罪に定めようとするのはだれですか」(34節a)と問います。この文の背後には、「それはキリストですか」という言葉が隠されています。33節では、「私たち(神に選ばれた人々)を訴える者は誰もいない」ということを学びました。それに続く34節aは、「では、キリストが私たちを罪に定めるのですか」という問いかけを発しています。もちろん答えは、「否」です。その理由を、パウロは次の34 節bで説明しています。
キリストが私たちを罪に定めるはずがありません。なぜなら、キリストは私たちのために死んでくださり、その愛を明らかにされたからです。パウロはこう言います。「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(34節b)。この聖句を通して、私たちが信じているキリスト・イエスがどういうお方なのか、確認してみましょう。(1)キリスト・イエスは私たちのために死んでくださいました。ここに愛があります。(2)キリスト・イエスは死んで、よみがえられました。十字架を見上げる時、今もキリストがそこにはりつけになっているかのような錯覚に捉われることがありますが、そうではありません。私たちの救い主であるキリスト・イエスは、今も生きておられます。(3)今キリスト・イエスは、神の右の座に着いておられます。「神の右の座」とは、「栄光の座」のことです。つまり、キリスト・イエスは辱めの時を通過して、今は栄光の御座に引き上げられているということです。(4)キリスト・イエスは、その栄光の御座にあって、私たち信者のために執りなしをしておられます。ローマ8:26 〜 27で、聖霊の執りなしについて学びました。聖霊は、私たちの心に中にあって、執りなしをしておられます。キリスト・イエスの執りなしは、それとは少し異なります。なぜなら、キリスト・イエスは私たちの心の中ではなく、栄光の御座にあって、私たちのために執りなしをしておられるからです。34節が教えていることは、結論的には、ローマ6 〜 8章で学んだ内容のまとめです。
私たちは、二重の意味での執りなしを受けています。内住の聖霊による執りなしと、栄光の御座にあるキリスト・イエスの執りなしです。神が私たちの内に始めてくださったよい業は、必ず成就します。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私は、御霊の執りなしと、キリストの執りなしの2 つを受けています。キリストにある神の愛から私を切り離すものは何もありません。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
創世記 43~44、詩篇 7~8
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