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ローマ人への手紙8:31 〜 33

31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

確信と賛美の歌(3)

33節a

修辞疑問文が続きます。パウロは、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」33節a)と問います。(1)「訴える」と訳された言葉は、エンカレオウという動詞です。この動詞は、法律用語、法廷用語です。パウロは、神によって義とされたクリスチャンを訴える者は誰かと問います。もちろん、そんな者はいません。(2)この動詞の時制は、未来形です。パウロが想定しているのは、将来の裁きです。つまりこれは、「終わりの日の裁き」だと考えられます。(3)もし私たちを訴える者がいたとしても、心配する必要はありません。なぜなら、私たちはすでに義とされており、その訴えは違法な訴えと見なされるからです。

33節b

パウロは、信者を訴える者がいない理由として、「神が義と認めてくださるのです」33節b)ということを上げています。(1)実は、33節aと33節bのつなぎ目には、「神」(セオス)という言葉が連続して出てきます(これを日本語で訳出するのは不可能です)。パウロは、「神」という言葉を2つ重ねることによって、動作の主体が「神」であることを強調しています。つまり、神が私たちを選び、神が私たちを義とされたということです。(2)33節は、「義認」を説明しているローマ1〜 5章のまとめとなっています。そこでは、神の法廷は、いわば最高裁の法廷です。つまり、それ以上の裁判所はないということです。(3)私たちは、最高裁の法廷で、義であり聖である父なる神(最高裁判事)から裁きを受け、無罪の判決を受け取りました。これは、信仰により、恵みによって私たちに与えられたものです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉えいよを受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、あたいなしに義と認められるのです」(5:2324)とあるとおりです。
私たちの罪は、過去のものも、現在のものも、未来のものも、すべてキリスト・イエスの贖いのゆえに赦されています。私たちは、奴隷ではなく、自由の子とされました。それゆえ私たちは、きょうも明日も、神の愛に応答して生きるのです。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。最高裁判事のあなたが、私に向かって無罪宣言をしてくださいました。感謝します。私に与えられた選択肢は、ただひとつです。それは、あなたの愛に応答して生きるということです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

創世記 41~42、箴言 3