31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(31節b)とあります。これは、すべての信者が、試練に会ったときに自問自答すべき言葉です。神は、イエス・キリストを救い主として受け入れた私たちの側に、常についておられます。神+私(たった一人でも)=多数です。つまり、私たちに敵対できる人(もの)は存在しないということです。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(32節)とあります。(1)パウロは、元パリサイ派のラビ(教師)でした。ここで彼は、大から小への議論というラビ的議論を展開しています。大が真理なら、小は自動的に真理となるというのが、それです。① 大は、「神は、ご自分の御子をさえ惜しまれなかった」という部分です。② 小は、「すべてのものを、私たちに恵んでくださる」という部分です。「すべてのもの」とは、被造の世界すべてです。つまり、神は最大の犠牲を払われたのだから、それ以下のものを与えてくださらないはずがないというのです。
(2)「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」とあります。3つの日本語訳(新改訳、口語訳、新共同訳)は、すべて「死に渡された」と訳しています。しかし、原文では、「渡された」だけで、「死」という言葉はありません。死という言葉の補足によって、逆に意味が狭められたように感じます。ヨハネ3:16との関連で、「渡された」という言葉を解釈する必要があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。この聖句に「お与えになった」とありますが、この言葉には、単に死に渡したという以上の意味があります。それは、父なる神と御子の断絶を意味します。
(3)ローマ8:32の背後には、イサク奉献物語(創22 章)があります。アブラハムは神の命令に従ってイサクを殺そうとしましたが、イサクが死ぬことはありませんでした。しかし、御子イエスは十字架上でその命を犠牲にされました。このことから、私たちが信じている神は、その本質において「与える神」であることが分かります。神は私たちに、最善のものを与えようとしておられます。私たちに必要なのは、忍耐です。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたは本質において「与える神」です。あなたの約束を受け取るために、私に忍耐心を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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創世記 39~40、マルコの福音書 15
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