23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
今私たちは、「栄化」のテーマについて学んでいます。ローマ8:18 〜27には3つの「うめき」が記されています。被造物のうめき(8:17 〜22)、神の子たちのうめき(8:23 〜 25)、御霊のうめき(8:26 〜 27)。すでに被造物のうめきが終わりましたので、今回は神の子たちのうめきを取り上げます。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23節)。(1)「そればかりでなく」というのは、被造物だけでなく、神の子たちもうめいているという意味です。すでに学んだように、被造物は、新しい世界を産むための「産みの苦しみ」を通過しています。その「うめき」は、無意味なものではありません。それと同じように、神の子たちもまた、意味ある「うめき」をしています。(2)「心の中でうめきながら」とは、神の子たちのうめきが言葉にならないものであることを示しています。ちょうど、被造物のうめきが言葉にならないのと同じです。
では、神の子とされた私たちがなぜうめくのでしょうか。それは、すでに得たものと、いまだ得ていないものとの狭間で葛藤を感じるからです。(1)すでに得たものとは、「御霊の初穂」です。私たちは信じた瞬間に、神の恵みの初穂として御霊を与えられました。御霊は、救いの保証(手付金)です。さらに言えば、終末的保証です。(2)そのように、御霊の初穂はすでに与えられているのですが、救いの完成はいまだ成っていません。(3)私たちは、肉体的弱さ、道徳的弱さのゆえに、うめいています。それは、救いの完成を求めるうめきです。それゆえ私たちは、「子にしていただくこと」を待ち望んでいるのです。「子にしていただく」とは、「からだの贖われること」、復活のからだを持つことです。私たちが復活のからだを持つことと、新しい世界が出現することが連動しています。
クリスチャン生活に苦難があるのは、当然のことです。私たちは、苦難を通して霊的に成長します。今の苦しみは、やがて大きな祝福をもたらします。父から与えられた訓練と思って、苦難を耐え忍びましょう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。今の時の苦難は、やがて大きな祝福をもたらします。きょうも、あなたが与えてくださる訓練を喜んで受け取ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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