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ローマ人への手紙8:9 〜 11

9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

まとめ

三位一体の教理について

先に進む前に、ローマ8:9 〜 11を復習してみましょう。特に注目したいのが、たった3節の中に、三位一体の神を表現する言葉が種々出ていることです。「神の御霊」(8 節)。「御霊」(8節)。「キリストの御霊」(8 節)。「内住のキリスト」(10節)。「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」(11節)。「キリスト・イエスを死者の中からよみがえられた方」(11節)。「あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」、などなど。
以上の表現から、父、子、聖霊は非常に親密な関係を保持しておられることが分かります。人類の救済計画の面から見れば、「父なる神が計画し、子なる神が実行し、聖霊なる神が完成する」ということが言えます。本来、三位一体の教理は、救済史全体の流れの中で捉える必要があります。父、子、聖霊は区別可能な位格であると同時に、分離不可能な位格でもあります。このバランスの中に、三位一体の教理の正しい理解があります。私たちが信じる神は、人間が創作したいかなる神とも異なります。

この箇所の適用

(1)未信者の時の自分と、信者になってからの自分とは違います。未信者の生活原則は、「肉の中」にあって生きるというものです。それとは対照的に、信者の生活原則は、「御霊の中」にあって生きるというものです。(2)信者になってからでも、罪を犯す可能性は残されています。それをどう考えたらいいのでしょうか。信じた瞬間に、私たちには聖霊の内住が与えられました。従って、信者が未信者の生活原則である「肉の中」に戻ることはありません。しかし、信者は時として「肉の性質」に協力し、罪を犯してしまうことがあります。その度合いは、信者によってそれぞれです。しかし、罪を犯すことがあるとは言え、信者が完全に「肉」によって支配されることはありません。信者は、「自分は罪を犯すかもしれない。きっとそうだ」と思ってはなりません。1ヨハネ3:9にこうあります。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」。これは習慣的な罪からの解放を教えている聖句です。信者は、自分は罪を犯さないし、その必要もなくなった、という前提で生きることが大切です。

きょうの祈り

天の父なる神さま。内住の聖霊によって、私は習慣的な罪から解放されました。もはや罪を犯す必要も必然性もなくなりました。きょうも聖霊に導かれた歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

歴代誌 第二33~34、ヨハネの黙示録21