6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
前回は、信者の前に2つの道が置かれていることを学びました。ひとつは、未信者であった時に歩んでいた古い道です。もうひとつは、信者になってから歩み始めた新しい道です。私たちはキリストにあって死んだので、古い道を歩く義務も必要もなくなりました。しかし、その古い道を自分で選び取って歩いてしまう可能性は残されています。さて、6 〜 8節にはこうあります。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません」
(1)「肉の思い」とは、罪の性質から出てくる思いのことで、神に対して反抗するものです。この真理を、ヤコブ4:4はこう解説しています。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」。この世を愛すること(つまり、肉の思い)は、神に敵することです。「肉の思い」は、神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。そしてそれは、その人を死に至らせます。(2)「御霊による思い」とは、内住の聖霊に導かれている状態のことです。そのような人は、神に心が開かれているので、御霊に導かれて神の律法に服従することができるのです。「御霊による思い」は、その人にいのちと平安を与えます。
8節の最後に、「肉にある者は神を喜ばせることができません」とあります。つまり、いかに信仰熱心であっても、それが肉の思いから出ているなら、神からは評価されないということです。① イスラエルには正統派のユダヤ人が多くいますが、彼らがいかに正統的であっても、神に喜ばれることはありません。② モルモン教徒がいくら熱心に死者のためのバプテスマを行っても、またアルコールやコーヒーから遠ざかっていても、神に喜ばれることはありません。③ エホバの証人がいくら熱心に輸血を拒んでも、また伝道に励んでも、神に喜ばれることはありません。④ セブンスデイアドベンチストがいくら土曜安息日を守っても、神に喜ばれることはありません。⑤ イスラム教徒がいくら熱心に戒律を守っても、神に喜ばれることはありません。いつも御霊に属することを考えている人だけが、神に喜ばれるのです。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたは私の心をご覧になります。どうか私の思いを、御霊の思いへと導いてください。私がいるべき場所に、私を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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歴代誌 第二23~24、詩篇145 ~ 146
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