3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
前回学んだように(2節)、信者は「いのちの御霊の原理」によって、「罪と死の原理」から解放されました。そう言える理由を、パウロは3節でこう述べています。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。(1)神は、律法にはできないことをしてくださいます。律法自体に問題があるのではなく、人間が持っている肉の弱さこそが問題なのです。(2)律法によっては不可能であったことを、神はしてくださいました。神は、罪人を救うためにご自分の御子を遣わされました。「罪深い肉と同じような形で」とありますが、これは重要な記述です。イエスは人間として来られましたが、その内に罪はなかったということです。(3)神は、肉において罪を処罰されました。それが十字架の死の意味です。私たちの罪は、御子の上に転嫁され、御子はその罪を負って十字架上で死んでくださいました。
この真理を教えているのが、ピリピ2:7 〜 8です。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。この聖句は、イエス・キリストが人であり神であることを教えています。人でなければ死ねません。神でなければ罪人を救えません。それゆえ、メシアは人であり神である必要があるのです。イエスの謙遜について黙想してみましょう。
次の4節には、こうあります。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」。(1)キリストを信じた瞬間、私たちは罪に対して死に、解放されました。(2)その結果、御霊に従って歩む自由が与えられました。御霊に従って歩むなら、結果的に律法の要求が全うされます。(3)私たちの内に「原罪(アダムの性質)」が存在しなくなったわけではありません。もし律法を行うことによって聖化を求めるなら、その古い性質は再び活発に活動し始めます。(4)しかし、御霊に従って歩むことを選び続けるなら、結果的に律法の要求を全うすることになります。これこそ、聖書が教える聖化です。
今、御霊に従って歩むことを選び取ろうではありませんか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。今私は、自我や自力によってではなく、御霊に従って歩むことを選び取ります。御子イエスのへりくだりから教訓を学ばせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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