1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
きょうからロマ書8章に入ります。ロマ書7章の状態と、ロマ書8章の状態を比較して見ましょう。(1)前者は、自分で自分に重荷を課しているクリスチャンの状態です。(2)後者は、聖霊の導きで歩んでいるクリスチャンの状態です。その人には祝福と平安が与えられます。聖化の教理を正しく理解することは、クリスチャン生活にとって極めて重要なことです。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(1節)。「こういうわけで」という接続詞は、7:1〜 6を受けています。次に展開される議論を理解するために、7:1 〜 6の内容を再確認してみましょう。(1)律法の大原則とは、「律法は生きている人に対して権限を持つが、死んだ人には権限を持たない」というものでした。(2)これを説明するために、結婚関係の例話が用いられました。① 夫が生きている間は、妻は結婚の律法によって制約されている。それを破れば、姦淫の女と呼ばれる。② 夫が死ねば、妻は結婚の律法から解放される。再婚しても、姦淫の女ではない。(3)その例話の適用は、次のようなものでした。① 信者は、律法に対して死に、今は、新しい御霊(聖霊)によって生きている。② もし今、律法による聖化を求めるなら、死んだ夫との関係が復活する。③ 律法が働き始めるので、信者の内にある罪の性質が活発化する。
パウロは、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と書いています。(1)福音を信じた瞬間に、私たちは新生しました。聖霊のバプテスマによってキリストと一体化させられました。これが、私たちの新しい状態です。(2)「キリスト・イエスにある者」という言葉が、私たちの新しい位置を示しています。これを「位置的真理(positional truth)」といいます。(3)キリストにある者は、罪の責めから解放されています(これが義認です)。そして、聖化もまた、それと同じ方法で実現します。つまり、恵みにより、聖霊によって実現するということです。
位置的真理は客観的真理です。これを正しく理解したなら、主観的に自分の罪の責めを感じる余地はなくなります。それでも自分を責めているとするなら、それは悲劇です。信仰によって神との平和を得ていることを、感謝しようではありませんか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。私は、イエス・キリストにあって新しい者とされました。信仰によって神との平和を得ていることを、心から感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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