14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
「聖化」に関する学びが続いています。クリスチャン生活における最大の悲劇は、律法を行うことによって聖化を達成しようとすることです。パウロはこう叫んでいます。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(15節)。パウロは、ひとりの人間の中に、2つの性質が宿っていることを教えています(病理学的な統合失調症のことではない)。彼には、したいと思うことがあります(新しい性質)が、憎むことを行っています(古い性質)。
人類の3区分について考えてみましょう。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」(1コリ3:1)とあります。この聖句を基に人類を3区分すると、① 未信者、② 肉に属する人(キリストにある幼子)、③ 御霊に属する人(成長した信者)となります。信者になった人は、肉に属する人か、御霊に属する人かのいずれかです。前者は、古い人(肉に属する性質)が活発に動いている人であり、後者は、聖霊に従って(新しい性質)動いている人です。いずれにしても、信者になったとたんに、古い人と新しい人の葛藤が始まります。この葛藤は、未信者の時にはなかったものです。未信者には一つの性質(古い性質)しかありませんので、葛藤がないのです。
「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(16〜17 節)。(1)本当の「私」の性質というのは、新しくなった性質です。しかし、罪の性質(古い性質)が、本当の「私」の性質に反して働いているのです。(2)パウロは、ここで責任逃れをしているのではありません。彼は、罪の力がどれほど強いかを説明しているのです。確かに、罪(古い性質)が私のうちに住みついています。
ユダヤ教のラビの教えに「罪を客に迎えれば、最後には罪が主人になってしまう」というのがあります。日本の格言にも「ひさしを貸して母家をとられる」があります。律法によって聖化を求めることは、罪に「ひさし」を貸すことです。恵みによる聖化を求めることこそ、祝福への道です。
きょうの祈り
天の父なる神さま。古い性質を制御することのできない私です。今聖霊によって私を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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