23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
ローマ4章でアブラハムと義認の関係を論じてきたパウロは、きょうの箇所で、私たちへの適用について論じています。
「しかし、『彼の義とみなされた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(23〜25 節)
(1)アブラハムに起こったことは、私たちにも起こります。つまり、アブラハムと同じ信仰を持つなら、私たちもまた、その信仰によって義とされるということです。(2)アブラハムは、死者を生かす神を信じました。これは、老年の夫婦から息子(イサク)が誕生するという約束を信じたということです。(3)私たちの場合は、主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じました。ここに、アブラハムの信仰との類似性があります。
(1)信仰の対象は、常に神ですが、信仰の内容は時代とともに変化します。その理由は、神の啓示が時代とともに進展するからです。これを漸進的啓示と言います。(2)アブラハムの場合は、息子が誕生すること、子孫が星の数ほどに増えることを信じました。(3)私たちの場合は、次のことを信じました。① 主イエスは、私たちの罪のために死に渡された。② 主イエスは、私たちが義と認められるために、よみがえられた。(4)主イエスの復活は、御子の贖罪死を父なる神が受け入れてくださったことの証明となっています。(5)私たちが信じた福音の内容は、① 十字架の死は義認の成就であり、② 復活は義認の承認であるということです。
この福音を信じた人は、信仰により、恵みによって救われています。それ以外の付加物は、不要であるばかりか、福音の純粋性を破壊する有害なものです。今、信仰により、恵みによって義とされている(救われている)ことを神に感謝しようではありませんか。主イエスの犠牲的な死によって、神の怒りは静められました。神は私たちに対して怒ってはおられません。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたの私に対する怒りが静められていることを感謝します。きょうも、あなたから愛されている子どもらしく、光の中を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ダニエル書9~10、ペテロの手紙 第一5
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