1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
信仰義認の原則が、旧約聖書の時代からあったことをパウロは証明しようとしています。その論証のために取り上げたのが、アブラハムです。「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか」(1節)とあります。アブラハムが信仰によって救われたとするなら、パウロの主張は証明されます。つまり、「アブラハムはいかにして救われたのか」が論点だということです。
「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません」(2節)。アブラハムは行いによって義とされたのではありません。従って、彼は神の御前では誇ることができません。この点を、パウロは創世記から証明します。「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります」(3節)。これは、創世記15:6からの引用です。神はアブラハムに天の星を見せ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。アブラハムは老年になっていたので、人間的にはこれが成就することはほぼ不可能でした。しかし、彼はそれを信じました。アダムとエバの罪は、神のことばを疑ったことにあります。神のことばを信用することが、信仰です。
「みなされた」は、ギリシア語で「ロギゾマイ」です。「自分の収入でないのに、自分の口座に入る」という意味です。この言葉が、3 〜 11節の間に8回も出てきます(3、4、5、6、8、9、10、11節)。「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(4〜 5節)とあります。(1)雇用契約では、雇い主は労働した従業員に給与を支払う義務があります。それは「当然支払うべきもの」です。しかし、働かないのに給与をもらえたなら、それは恵みです。(2)アブラハムは、何の働きもないのに、信じたために義と認められました。「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」、それが義と認められるのです。
信仰義認の原則は、パウロが考え出したものではなく、創世記の時代から教えられていたものです。私たちもまた、アブラハムと同じ信仰を持つことにより、義認の恵みを受けました。感謝します。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私もまた、アブラハムの信仰にならいたいです。信仰義認の恵みを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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