16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
きょうの箇所は、ロマ書全体のテーマを表明したものです。パウロは、「私は福音を恥とは思いません」(16節)と言いました。(1)パウロには、ローマにまで行って、いのちがけで福音を伝えたいと願う理由がありました。それは、福音を恥としない、ということです。ちなみに、「恥とする」とは、信じないことと同じ意味です。(2)マルコ8:38を見てみましょう。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」。(3)2テモテ1:11 〜12も見てみましょう。「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」。(4)つまり、「恥としない」とは、完璧な信頼を置いている、誇りとしているという意味です。
パウロが「福音を恥とはしない」と言わざるを得なかった理由があります。(1)1コリント1:22 〜24 を見てみましょう。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。(2)福音は、ユダヤ人から軽蔑されました。彼らはキリストからでさえも「しるし」を要求しました。彼らにとっては、十字架の死は呪いの死であり、「つまずき」です。パウロはユダヤ人から迫害されました。(3)福音は、ギリシヤ人からも軽蔑されました。彼らは知恵を追求しました(ローマ人は力も追求しました)。彼らにとっては、十字架の死は愚かなものでした。パウロはギリシヤ人からは無視されました。
そういう世界観の中にあって、パウロは胸を張って「福音を恥としない」と叫んだのです。これは私たちへの教訓であり、挑戦でもあります。日本の文化の中にあって、「私は福音を恥とはしない」と表明できる人は幸いです。
きょうの祈り
天の父なる神さま。非聖書的価値観が支配するこの国にあって、私は、「福音を恥としない」と表明します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ゼパニヤ書1~3、テモテへの手紙 第一2
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