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出エジプト記34:1 〜 9

1 【主】はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。

2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。

3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。

5 【主】は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、【主】の名によって宣言された。

6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、

7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、

9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

神の栄光の啓示(3)

新約聖書における神の栄光の啓示

ここで、新約聖書における神の栄光の啓示について学んでみよう。
(1)人間が作る神概念には、以下のようなものがある。人間の有限な知性で考えるので、当然不十分であったり、間違っていたりする。無神論者は、神はいないと考えている。彼らは、主観的な思い込みを、まるで証明された事実であるかのように考えている。偶像礼拝者は、偶像礼拝が悪いとは思っていない。また、偶像礼拝の本質が、実は「人間の貪欲」であることに思い至らない。クリスチャンでさえも、自分の神概念を作り上げている場合がある。その人たちは、聖書を学ぶことに興味を示さない。
(2)出エジプト記が書かれた目的(啓示された目的)は、【主】を知ることにある。モーセ一人がそれを理解し始めている。彼とイスラエルの民の間には、深い隔たりがある。幕屋は、【主】を知るための恵みの手段として与えられた。クリスチャン生活の目的もまた、【主】を知ることにある。
(3)新約聖書における神の栄光の啓示は、イエス・キリストである。ヨハネ1:14 には、こうある。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。イエスの肉体という幕屋に、シャカイナグローリーが宿ったのである。これが受肉の真理である。ヨハネ14:9 には、こうある。「イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」。コロサイ1:27 には、こうある。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」
私たちの内には、キリストが住んでおられる。キリストは、私たちの「栄光の望み」である。罪の赦し(義認)、人格の清め(聖化)、栄光の姿に変えられること(栄化)、このすべてがキリストにあって可能となる。自力で励むのではなく、キリストに信頼を置く歩みを続けようではないか。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私は、キリストにあって義とされ、清められ、栄光の姿に変えられます。自力で励む信仰生活ではなく、キリストにあって歩む信仰生活を送らせてください。キリストこそ、「栄光の望み」です。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エゼキエル書4~5、コリント人への手紙 第二12