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出エジプト記20:13

13 殺してはならない。

第6 戒

第6 戒(13 節)

「殺してはならない」。第6 戒は、いのちの尊厳を教えるための命令である。「殺す」とは、私的理由で、計画性をもって、故意に人のいのちを奪うことである。自殺は自分のいのちを奪うことなので、第6 戒に対する違反となる。
第6 戒は、死刑を禁止したものではない。モーセの律法の中には、死刑を命じている箇所がいくつかある。以下のような場合は、罰としていのちを奪うように命じられている。(1)「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」(レビ20:10)。(2)「血の復讐ふくしゅうをする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい」(民35:19)。(3)偶像礼拝を扇動した者への裁きについては、このような命令がある。「あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい」(申13:15)。この規定は、【主】が命じる戦争における殺人を許可している。
故意に殺人を犯した者は、死刑に処せられる。それは、いのちの尊厳を教えるためである。しかし、過失致死の場合は、犯人は逃れの町に逃げ込むことができる。

私たちへの適用

イエスは殺人を、心の状態にまで拡大して論じておられる。(1)「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ5:21 〜 22)。
イエスは、モーセの律法は心のあり方まで問題にしていると教えておられる。パリサイ人の口伝律法とイエスの律法解釈の間には、大きな違いがあった。その違いが、両者の論争の原因となったのである。(2)使徒ヨハネもまた、心で人を憎むことは人を殺すことだと教えている。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです」(1 ヨハ3:15)
神を愛することは、隣人を愛することでもある。キリスト教信仰の真髄しんずいは、愛である。憎しみを捨て、愛の実践に目と心を向けようではないか。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。信仰は行動によって表現されるものです。どうか私に愛を増し加え、私を愛の人として育ててください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

列王記第一7~8、使徒の働き15