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出エジプト記17:9

9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

イスラエルの反撃

イスラエルの最初の戦い

アマレクとの戦いは、イスラエルにとって最初の戦いであった。イスラエルは、出エジプトによって誕生したばかりの若い国で(まだ土地を所有していない)、戦争経験がなかった。【主】によって造られた国ではあったが、民の間では、いまだに国としての自意識がとぼしかった。あらゆる面から見て、この戦いは、若い国の存立にかかわる重大事件であった。イスラエルの民が身に着けていた武具と武器は、おそらく葦の海で溺死できししたエジプト人兵士たちから回収したものであろう。軍隊の体裁を取っていても、実践じっせん経験がないというのが、この時のイスラエル軍の状態である。モーセはヨシュアに命じて、戦闘態勢を整えさせた。

罪と裁きのパターン

先に進む前に、罪と裁きの関係について考えてみよう。出エジプト記17 章と民数記20 章には、似たようなパターンが見られる。(1)出エジプト記17 章では、イスラエルの民がモーセと争った。内容は、水に関する争いである。その時は、モーセが杖で岩を打ち、水が与えられた。水は与えられたが、民の不従順に対して神の裁きが下った。それがアマレクの攻撃である。この裁きは、民を訓練するためのものである。(2)民数記20 章では、イスラエルの民がモーセとアロンに反抗した。これもまた、水に関する争いである。この時は、モーセが杖で岩を2 度打ち、水が与えられた。しかしモーセは、「岩に命じよ」という【主】の命令に背いたので、カナンの地に入れなくなった。この時も、民の不従順に対して裁きが下った。裁きの内容は、エドムがイスラエルの民の通過を許さなかったことである。この時も、エサウの子孫が裁きのうつわとして用いられている。(3)学ぶべき霊的教訓は、次のようなものである。イスラエルの民に与えられた神の約束は、必ず成就する。イスラエルの民が罪を犯した時、裁きが下る。往々にして、神は敵を裁きの器として用いる。しかし、イスラエルの民を攻撃した国は、必ず裁かれる。
神は、私たちクリスチャンも同じように訓練される。一度キリストを信じたなら、救いが取り去られることはない。しかし、私たちが罪を犯したり、不従順になったりすると、神は矯正きょうせいのための訓練を開始される。それは、私たちを愛するがゆえの矯正である。「すべてのらしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブ12:11)

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。あなたが与えてくださる訓練を、喜んで受けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

サムエル記第一6~7、ルカの福音書19