22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
イスラエルの民は、【主】の奇跡的介入により、紅海を渡った。彼らは、向こう岸に立って、エジプト人の死体が海に浮かぶのを眺めた。次に彼らは、勝利を与えてくださった【主】に賛歌を歌い、踊った。それが終わると、いよいよ荒野の旅が始まる。荒野は、【主】がご自身の民を訓練する学校である。
民を旅立たせることは、容易ではなかったようだ。「旅立たせる」という動詞は、ヘブル語で「ナサー」で、「(天幕の杭を)引き抜く、出発する、移動する」などの意味がある(ここでは、使役動詞の型が用いられている)。動詞の用法から、イスラエルの民はなかなか動こうとはしなかったことが分かる。動こうとしなかった理由が、いくつか考えられる。①賛美に酔いしれていた。②エジプト軍から富を略奪することが可能となったので、もう少しそこにいたかった。③征服するためにエジプトに戻るという可能性さえ出て来た、などなど。
この時点で、モーセとイスラエルの民の間には、認識の相違があった。モーセは信仰によって行動していたが、イスラエルの民は肉によって行動していた。イスラエルの民は、霊性が豊かになるための訓練を必要としていた。それゆえ、荒野を通過して約束の地を目指す必要があったのである。新約聖書でも、神が信者を訓練するという教えはたびたび出て来る(1 コリ3:1、14:20、ヘブ5:13〜14 参照)。
イスラエルの民は、シュルの荒野を3 日間歩いた。3 日間という言葉は、生死にかかわる時によく使用される象徴的言葉でもある。「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ」(ホセ6:1 〜 2)。滅びの直前であっても、悔い改めるなら、【主】は速やかにその人を助けてくださる。
3 日間歩いても水が見つからないのは、【主】からの訓練である。エジプトに留まっていたなら、この訓練はなかった。これは自由の民として歩み始めたがゆえの訓練である。しかし、【主】の意図を理解しない民は、つぶやきの声を上げるようになる。つぶやきが習慣となる時、私たちは祝福を逃すばかりか、神の裁きを身に受けるようになる。私たちに関しては、神の訓練を喜んで受ける歩みをしよう。
きょうの祈り
天の父よ。あなたは愛する者を訓練されるお方です。どうか私の弱い信仰を励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ヨシュア記21~22、ルカの福音書8
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