2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。
3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
モーセの疑問に対する【主】からの回答が続く。2 節以降で神は、自らの本質を啓示される。(1)「わたしは【主】である」。この啓示は、「わたしは、『わたしはある』という者である」(3:14)と深く関係している。「わたしはある」という神の御名は、神が、①自立自存の神、②自足している神、③すべてを包含する神、④いかなる限界もない神であることを表している。(2)それに対して、【主】(ヤハウェ)という神の御名は、神が、①契約を守る神、②変わることのない神、③常に信頼できる神であることを表している。(3)「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、」とあるが、「全能の神(エル・シャダイ)」という御名は、神がすべての必要を満たす神であることを表している(創17:1、28:3、35:11 など参照)。(4)さらに、「【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった」とある。【主】という御名は創世記に165 回も出て来るので、アブラハム、イサク、ヤコブは、この名を知っていたはずである。なぜ神は、「【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった」と言われたのであろうか。ヘブル的には、名前は本質を表すものである。イスラエルの民は、【主】という御名を聞いてはいたが、その意味を体験的に知っていた訳ではなかった。彼らは、出エジプト体験を通して、【主】というお方の力、恵み、本質を新しく知るようになる。【主】は、イスラエルの民と契約を結び、彼らにカナンの地を与えると約束された。その契約に基づいて、【主】はイスラエルの民をエジプトから解放されるのである。
神の自己啓示の内容を黙想し、自らの生活に適用してみよう。私たちの信仰は、時として自己中心的なものとなる。「私が恵まれるためには」「私が成長するためには」「私が豊かになるためには」などなど、「私」が中心に座ることが多い。果たしてそれでいいのだろうか。「私」が中心にある信仰では、「神の偉大さ」を体験的に知ることはできない。常に神の偉大さに焦点を合わせようではないか。礼拝は、神の偉大さを称える営みである。そして、神は契約を必ず守られるお方であることを心に刻もう。信仰の焦点が「私」から「神」に変化する時、私たちの神体験は深化して行く。そして、神を体験的に知れば知るほど、その偉大さを称えたくなるのである。それこそが、クリスチャンが捧げる礼拝である。
きょうの祈り
【主】なる神よ。私の言葉では、あなたの偉大さを表現することは不可能です。どうか体験的にあなたを知ることができますように、私をお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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