6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
7 【 主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
「また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」。(1)「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは、契約の神の御名である。この御名には、「神は、モーセの先祖たちと結んだ契約に忠実なお方である」という意味が込められている。またこの御名は、死後のいのちを保証するものでもある。イエスは、サドカイ人(死後の復活を信じなかった)との論争において、次のように言われた。「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(マタ22:32)。(2)契約の神は行動する神でもある。3 つの動詞に注目しよう。①見た、②聞いた、③知っている。これらの動詞は、時が来たなら、神は必ず行動されることを示している。神は「エジプトの手からイスラエル人を救い出し」「カナンの地に上らせる」と宣言された。(3)カナンの地については、「広い良い地」「乳と蜜の流れる地」「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所」と表現されている。カナンの地は、世界のハイウェイと呼ばれる地であり、誰もがその地を欲しがっていた。そこをイスラエルの民が所有するのは、人間的には不可能なことである。その不可能を可能にするのが、神の業である(これは、400 年前に神がアブラハムに約束されたことの成就である)。
契約の神は、人間を用いる神でもある。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」。40 歳のモーセと80 歳のモーセは違う。彼は、自分が無力であることを体験的に学んでいた。それゆえ神は、モーセを豊かに用いることが出来た。この原則は、今も変わらない。私たちもまた、自分自身を完全に神の御手の中に委ねた時、豊かに用いられるようになる。出エジプトを可能にされた神にとっては、日本にリバイバルを起こすのは簡単なことである。問題は神にではなく、私たちの信仰にある。神はモーセに、「転職の勧め」をされたのではない。それは、「人生の方向転換」の勧めであり、神とともに大いなる夢を描こうではないかという誘いである。同じ勧めを、神は私たちにもしておられる。神の招きに応答しようではないか。
きょうの祈り
アブラハム、イサク、ヤコブの神よ。あなたの招きを感謝します。どうか私を御業のためにお用いください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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