5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である』」。モーセが歩いて来た地は汚れた地である。それに対して、シャカイナグローリーが輝く地(神が臨在される地)は、聖なる地である。「聖なる地」は、ヘブル語で「アドゥマット・コデッシュ」である。
(1)「コデッシュ(聖なる)」の本来の意味は、区別されているという概念である。セム系の言語には同じルート(語幹)の言葉が出て来る。それは、偶像の神々と人間とを区別するための言葉である。偶像の神々は人間と同じように善も悪も行うが、その規模が大きいので、人間とは区別される。しかし、聖書の神に関連してこの言葉が用いられる場合は、別の意味を持っている。「コデッシュ(聖なる)」は、神は創造主であり、人間は被造物であることを教えている。その区別を認識することは、信仰の第1 ステップである。(2)さらに「コデッシュ(聖なる)」は、神の道徳的完全性を示している。この言葉は、旧約聖書全体で470 回出て来るが、創世記に登場する回数は0 回である(聖別するという動詞は、創世記2:3 に1度だけ出て来る)。ところが、出エジプト記では70 回、レビ記では92 回、民数記では57 回出て来る。神が聖であるという概念は、出エジプト3:5 になって初めて紹介されたものである。
モーセの律法の中には、「神が聖なるお方である」ことを教える箇所がいくつもある。その筆頭が、レビ記11:45 である。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」。レビ記全体の教えは、この聖句に要約されていると言っても過言ではない。
新約聖書では、ペテロが同じことを教えている。1 ペテロ1:13 ~ 16 がそれである。「・・・イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。・・・あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」
クリスチャン生活のゴールは、成功したり、豊かになったりすることではなく、聖なる神の子にふさわしい「聖」を身につけることである。私たちは、この世から選び出された(この世から区別された)聖徒たちである。
きょうの祈り
聖なる神よ。どうかあなたの聖なることを覚え、聖なる歩みをさせてください。罪や汚れから私を救い、あなたの御手の中に保ち続けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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