33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
マタイの福音書では、ヴィア・ドロローサ途上での出来事が省かれている。ちなみに、ルカ23:27 ~31 には、嘆き悲しむ「エルサレムの娘たち」のことが記されているが、彼女たちは、職業的な泣き女である。
イエスとクレネ人シモンは、刑場に着いた。その場所はゴルゴタと呼ばれていたが、それは「どくろ」という意味である。地形が「どくろ」のような形をしていたからではなく、死刑を執行する場所だからそう呼ばれたのである。日本でも、「首塚」という言葉がある。これは、討ち取った敵の首を供養するために作った塚のことで、決して首のような形をしていたわけではない。聖地旅行に行くと、プロテスタントのクリスチャンたちは、「どくろ」のように見える場所に案内され、ここがゴルゴタであった可能性があるとの説明を受けることがある。しかし、その可能性は皆無である。今の地形は、1880 年代になってからできたもので、イエスの時代のものではない。ゴルゴタはどこかという点に関しては、現在の聖墳墓教会が建っている場所であるという説のほうが、はるかに説得力がある。刑場として選ばれるのは、町から近く、だれでも簡単に行くことができる場所である。十字架刑は見せしめの刑なので、衆人の目にさらす必要がある。ゴルゴタは、まさにそのような場所であった。
ローマ兵たちは、苦味を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとした。これは、死刑執行の手順の中で、普通に行われたものである。このぶどう酒には、鎮痛剤としての効果がある。少しでも十字架刑の痛みを和らげてやろうというローマの配慮がそこに働いている。しかしイエスは、それをなめただけで、飲もうとはされなかった。その理由は、最後まで意識を正常に保つ必要があったからである。苦味を混ぜたぶどう酒には、痛みを和らげると同時に、意識をもうろうとさせるという作用もあった。イエスは、激しい霊の戦いを最後まで戦い抜こうとしておられた。それゆえ、意識が鮮明でなくなることは、決して歓迎すべきことではなかった。
主イエスは、私たちの罪のために、最後まで苦しみに耐え、父なる神の御心を実行してくださった。その痛みを思いつつ、いま心から主を礼拝しよう。十字架を負って主イエスに従うとはどういうことなのかを黙想し、「主よ、あなたの御心が私の人生の上に成りますように」と祈ろうではないか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスが経験された苦しみを思い、私の胸は張り裂けんばかりです。死の極みまで私を愛してくださり、ありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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創世記 13~14、マルコの福音書 5
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