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マタイの福音書23:1 ~ 5

1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、

2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座をめています。

3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩にせ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。

5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札きょうふだはばを広くしたり、ころものふさを長くしたりするのもそうです。

群衆と弟子たちへの教え(1)

公生涯最後のメッセージ

この章(23 章)でイエスの公生涯は終わる。それ以降イエスは、すべての時間を弟子訓練のために用いるようになる。(1)23 章には、イエスの公生涯における最後のメッセージが記されている。(2)ある人たちは、この箇所でのイエスのメッセージを根拠に、新約聖書は反ユダヤ的な文書であると主張するが、それは当たっていない。イエスは、イスラエルの指導者たちが誤った道に民衆を導いていることを糾弾きゅうだんされたのである。また、盲目的もうもくてきにそのような指導者たちに従っている民衆の罪も指摘された。イエスの働きは、イスラエルの指導者たちを糾弾した旧約聖書の預言者たちの系譜けいふに属するものである。(3)イエスは、群衆と弟子たちにパリサイ派の間違いについて教えた。イエスは、4 つの間違いを指摘されたが、今回は、最初の3 つについて見てみよう。

パリサイ派の間違い

(1)言行不一致の問題。「モーセの座」とは、争い事を裁く裁判官の席のことである。ガリラヤ湖の北にあるコラジンの遺跡には、当時の会堂跡がある。その会堂跡に入ると、右側に特別な座が設けられていたことが分かる。その席が、「モーセの座」である。当時、裁判官たちは判例(過去の判決)に従って人を裁いていた。彼らには、新しく律法を作る権威は与えられていなかった。彼らの問題点は、人を裁く位置にいながら、行いが伴っていなかったことである。(2)ミシュナ的律法が重荷になっているという問題。ミシュナ的律法とは、パリサイ人たちが重視した口伝律法のことである。彼らはそれを民衆に負わせる一方、自分たちのためには抜け道を用意していた。(3)偽善の問題。モーセの律法は、経札や衣のふさをつけることを命じている(経札とは聖句を書いた小さな巻物を入れる小箱のこと。出エジプト13:3 ~16、申命記6:5 ~9、11:13 ~21 を書いた巻物が入っていた)。経札やふさは、偽善の道具にされていた。
パリサイ人たちの最大の問題点は偽善である。これは、今の私たちにも当てはまる大問題である。律法を実行する動機は、神に対する愛でなければならない。主イエスのこのことばを思い起こそう。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハ14:15)。主イエスへの愛こそ、「キリストの律法」(ガラ6:2)を実行する動機である。律法主義の束縛から解放される唯一の道は、聖霊の助けによって主イエスへの愛を実行することである。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私は愛の足りない者でした。何よりも、私の心をイエス・キリストに対する愛で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

歴代誌 第一4~5、ユダの手紙