8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
10 こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。
11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。
イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されるのを見て、群衆はイエスを歓迎した。群衆の言葉と行動から、彼らがイエスをメシアとして迎えたのだということがよく分かる。しかし、ユダヤ人の指導者たちは、イエスのメシア性を公式に否定していたので、すでに「時遅し」の状態になっていた。イエスを王とする「メシア的王国」(千年王国)の確立は、先に延ばされることがすでに決まっていたのだ。
群衆は、イエスをメシアとして歓迎した。(1)彼らは、着ていた上着を道に敷いたり、木の枝を切って来て道に敷いたりした。これは、メシアを迎えるための行為である。(2)また彼らは、ハレルヤ詩篇(113 ~118 篇)のクライマックスに当たる詩篇118:25 ~26 を唱えた。これは、メシアを迎える時に歌う詩篇である。(3)このように熱狂的にイエスをメシアとして歓迎した群衆が、なぜ1 週間後にイエスを十字架につけることをよしとするのだろうか。その理由は、彼らがイエスの意図を誤解していたからである。
イエスは、過越の小羊としてエルサレムに入城されたのであるが、群衆はイエスを政治的メシアとして迎えた。(1)群集が手にしたのは「しゅろの木の枝」であるが、この木の枝を振るのは、仮庵の祭りの習慣である。過越の祭りには、その習慣はない。(2)また彼らは、「ホサナ」(「いま私たちを救ってください」という意味)と叫んでいるが、これも仮庵の祭りでの祈りの言葉である。(3)以上のことから、群衆がイエスのエルサレム入城を仮庵の祭りとの関連で見ていたことが分かる。ゼカリヤ14:16 ~21 は、仮庵の祭りがメシア的王国(千年王国)で祝われることを預言している。そのことを知っていた群集は、直ちにメシア的王国が出現すると思い込んでいたのである。(4)しかし、過越の祭り(十字架の死)がなければ、仮庵の祭り(千年王国)が来ることはない。群衆は、それを理解していなかった。群衆だけでなく弟子たちも、同じあやまちを犯していた。
群衆の期待、弟子たちの期待、祭司長たちの意図(祭りの期間はイエスを殺さないという決定)などが渦巻く中で、イエスは神の御心の道をひとりで歩まれた。今、私たちの目は何を見ているだろうか。自分が見たいものだけしか見ていないということはないだろうか。大切なのは私の思いではなく、神の御心である。主イエスとともに御心の道を歩む人は幸いである。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私の霊の目を開いてください。主イエスの思いを私の思いとさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エズラ記5~6、ヨハネの手紙 第一1
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