29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。
32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
紀元1 世紀には2 つのエリコが存在していた。旧約のエリコと新約のエリコであるが、その間には約6 キロメートルの距離があった。この箇所の出来事は、イエスが旧約のエリコを出て新約のエリコに入ろうとしていた時に起こった。(1)盲人はふたりいたが、その内のひとりが、バルテマイ(テマイの息子)という名であった(マコ10:46)。(2)彼らは、イエスがお通りになると聞くと、大声で「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫んだ。「ダビデの子」とは、メシアの称号である。彼らは、イザヤ35:5 の預言から、メシアは盲人を癒すことができると信じていたのである。(3)周りの人たちは、彼らをたしなめ、黙らせようとしたが、彼らはなおも叫び立てた。この機会を逃すことはできないと考えたのであろう。
(1)彼らの叫び声が聞こえていたはずなのに、どういうわけかイエスは沈黙しておられた。その理由は、ユダヤ人全体としてはイエスのメシア性を拒否していたため、イエスはメシアとしての奇跡を行わないという方針(ポリシー)を採用していたからである。(2)しかし、結果的には、彼らは癒された。その背後には、ある決まったプロセスが見られる。① イエスは、盲人たちを群衆の中から呼び出し、自分のそばに来させた。この癒しは、イエスのメシア性を証明するためのものではないので、私的に行われるのである。② イエスは彼らに、個人的な必要がなんであるかを言わせた。「わたしに何をしてほしいのか」。「主よ。この目をあけていただきたいのです」。③ イエスは彼らに信仰があることを確認された。マルコ10:50 によれば、彼らは上着を脱ぎ捨てて、すぐに立ち上がってイエスのところに来た。上着を脱ぎ捨てたのは、すぐに目が開かれて、それを見ることができるという信仰の現れである。(3)イエスは、彼らの信仰に応えて癒しを行われた。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた」とある。「憐れみの心」こそが、癒やしの動機である。
盲人たちの熱心な信仰と、イエスの憐れみの心が合致して、この奇跡が生まれた。ふたりの盲人は熱心に願ったが、より熱心な方の名前だけが聖書に残った(バルテマイ)。私たちの場合はどうか。このふたりの盲人のように、熱心に願っているだろうか。私たちの叫びを理解してくださるイエスに、今すべてを打ち明けようではないか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたは、ご自身のあわれみのゆえに、暗やみの中にいた私を見いだし、私を招いてくださいました。この盲人たちのように、私も主イエスに従います。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エズラ記1~2、ペテロの手紙 第二2
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