21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ペテロの信仰告白の後、イエスは初めてご自身の受難を予告された。この時、イエスの公生涯は最後の年に入っていた。(1)これが最初の受難の予告であるが、これ以降、同じ予告がくり返される(マタ17:9、12、22 ~23、20:18 ~19)。(2)先に行くほど予告の内容は詳細なものになっていくが、それでも弟子たちは、その意味を理解することができなかった。(3)そのため、イエスが十字架にかかった時、彼らは全く予期せぬことが起こったかのように仰天した。(4)イエスは、メシアの受難には4 つの側面があることを啓示された。① 父なる神の計画に従い、エルサレムに行かねばならないこと。② 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けること。③ 最後は殺されること。④ 3 日目によみがえらなければならないこと。「よみがえる」という動詞が受動態になっている。つまり、父なる神がメシアをよみがえらせるという意味である。
(1)ペテロは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(15 節)というテストには合格したが、それに続くテストには失敗した。つまり、彼のメシア理解は、点数をつけると50 点だったということである。(2)イエスから受難の予告を聞かされたとき、ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「いさめる」とは激しい内容の言葉で、あることが起こらないように説き伏せるという意味がある。(3)イエスは彼に対して、「下がれ。サタン」と言われた。これは、ペテロがサタンだという意味ではない。ペテロの判断、行動、発言が、サタンの立場に立っているという意味である。サタンの立場とは、イエスが過越の祭りの時に十字架につかないように妨害することである。これは、イエスの贖罪の業を無効にしようとするサタンの策略である。イエスが荒野でサタンから受けた誘惑も目的は同じで、イエスを十字架の死から遠ざけようとするものであった。(4)ペテロは、メシアであるイエスが苦難にあわなければならないことを理解していなかった。そのため彼は、神の御心ではなく、人間的な同情心に従って動いてしまったのである。
熱心なだけで神学(深い聖書的理解)が伴わないなら、その信仰は、非常に危険なものとなる。善意があっても神学がないなら、その信仰は人を神から遠ざけるものとなる。今、聖書の教えを無視して、ヒューマニズム的発想(人間中心)で動いている点はないかどうか、黙想してみよう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。熱心に、あなたのみことばを読み、学ぶことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
伝道者の書11~12、ヘブル人への手紙11
ハーベスト・タイムによる無料の聖書講解動画(音声)サイト。
最新のメッセージ
毎朝6時にきょうの【クレイ】が
あなたのLINEに届きます!
» 登録はこちら