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マタイの福音書15:1 ~ 3

1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。

2 「 あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。

清めの洗いに関する論争

「律法」と「律法主義」

パリサイ人や律法学者がエルサレム(ユダヤ教の中心地)から下って来て、イエスに論争を挑んだ。ここで、「律法」と「律法主義」の違いについて考えてみよう。(1)「律法(モーセの律法)」は、神がモーセを通して契約の民イスラエルに与えたもので、それ自体は良いものである。(2)「律法主義」は、形式にこだわり過ぎて、結果的に神の律法に反してしまうことである。パリサイ人たちは、律法主義者であった。彼らの目標は、「長老たちの言い伝え」を遵守じゅんしゅすることであった。「長老たちの言い伝え」とは、「口伝律法(ミシュナ的律法)」と呼ばれるもので、モーセの律法(613の戒め)の周りに無数に張り巡らされた垣根かきねである。パリサイ人たちの教えによれば、口伝律法はモーセの律法と同じ権威を持っているとされた(ある場合には、モーセの律法以上の権威が認められた)。イエスは、モーセの律法を大切にされたが、口伝律法は無視された。なぜなら、それは人間の教えに過ぎないからである。以上のことを背景に、きょうの箇所を見てみよう。

清めの洗い

(1)パリサイ人たちは、食事の前には必ず手を洗っていた。衛生上の理由からではなく、儀式的な理由からである。手は、指先からひじまでを洗うのがしきたりであった。(2)マルコ7:1 ~4 には、市場から帰った時は、からだを清めてからでないと食事をしなかったことや、食器の清めに関しても厳密なしきたりがあったことなどが記されている(異邦人読者のための詳細な解説である)。(3)しかし、モーセの律法は、そこまで要求していたわけではない。イエスは、モーセの律法はすべて実行されたが、口伝律法は否定された。(4)パリサイ人たちは、イエスの弟子たちが口伝律法に違反するのを見て、論争を挑んできた。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」。(5)イエスはこう反論された。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか」。その具体例が、「コルバン規定」である(これについては次回学ぶ)。
私たちの生活の中に、律法主義や形式主義におちいっている部分がないかどうか、自己吟味をしようではないか。神は、私たちの外面の行動ではなく、内面を観ておられる。霊的に成長するとは、より宗教的な人物になることではなく、聖霊の導きと調和して歩むようになることである。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。あなたは私の心をご覧になります。どうか私を、形式主義から解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨブ記28〜30、詩篇107 ~ 108