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マタイの福音書10:34 ~ 39

34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、つるぎをもたらすために来たのです。

35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

派遣にあたっての指示(5)

3 つの警告

この箇所でイエスは、3 つの警告を発している。その内容を確認してみよう。
(1)「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」。このことばは、読む者を驚かせる。イエスは平和の人であり、平和をもたらすために来られたのではないかと。実は、このことばは、イザヤ8:14 の成就である。イザヤは、メシアが到来すると、信じる者(イスラエルの残れる者)と信じない者が二分されると預言していた。信じない者には、メシアはつまずきの石、落とし穴となる。もしイスラエル人たちがイエスをメシアとして受け入れていたなら、神の国(千年王国)は確立され、平和が実現していたはずである。しかし、実際はそうはならなかった。イエスが登場して以来、イエスはイスラエルの民を二分する原因であり続けている。その状況は、今も変わっていない。ユダヤ人がイエスをメシアと信じると、ただちに家族との葛藤かっとうが始まる。イエスを信じた子どもが、親から勘当かんどうされることもめずらしくはない。苦難にあったときは、ただちにイエスの内に逃げ込もうではないか。また、イエスを「つまずきの岩」と見ている多くのユダヤ人のために祈ろう。
(2)「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」。このことばは、イエスの弟子になるためには、何が要求されるかを教えている。人が救われるのは、信仰と恵みによる。それは事実であるが、ここでイエスが教えておられるのは、救われた人がいかにして弟子となっていくかということである。十字架に象徴される自己犠牲の道を歩むことが、弟子の道である。
(3)「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」。イエスは人々から拒否され、十字架にかけられる。イエスにつながるとは、イエスの十字架の死と同じ姿になるということである。そして、イエスの死とつながった者は、イエスの復活ともつながるようになる。それが、イエスのためにいのちを失う者は、真のいのちを得るという逆説的真理の意味である。
以上の3 つの警告の意味を黙想してみよう。厳しいことばであるが、同時に、愛にあふれたことばでもある。神は、私たちが霊的幼子から成長し、真の弟子となることを待っておられる。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか私を、主イエスの弟子としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

アモス書1~2、テサロニケ人への手紙 第一1