21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
イエスは、山上の説教のまとめとして「4 種類の対比」について語っておられる。すでに、「2 つの道の対比」、「2 種類の預言者の対比」について学んだ。今回は、「2種類の告白の対比」を取り上げる。この箇所では、自己欺瞞の危険性について警告が発せられている。偽預言者の存在は大きな問題であったが、自己欺瞞はそれ以上に厄介なものである。多くの人たちが、自分を欺き、自分が真の信者になったかのような錯覚に陥っている。
その人たちには、次のような特徴がある。(1)「主よ、主よ」と口では告白するが、それは言葉だけのものである。イエスを信じる信仰によって新生体験をしていないなら、その人の信仰は、見せかけの信仰である。(2)主の御名によって預言する。表に出た行為だけで判断すると、あたかも本物の信仰者のように見える。しかし彼らは、主の御名をみだりに唱えているだけである。これは、重大な罪である。(3)主の御名によって悪霊を追い出す。しかし、悪霊を追い出したことが、本物の信仰者の証明になるわけではない。サタンにとっては、人間を欺くことなど朝飯前である。(4)主の御名によって多くの奇蹟を行う。しかし、奇蹟を行うことも、本物の証明にはならない。サタンは、本物によく似た偽物を作り出すことができるからである。出エジプト記に登場するエジプトの魔術師たちは、モーセの奇蹟を模倣することができた。
すべてのことが、その日(さばきの日)に明らかになる。どのような告白も、預言も、奇蹟も、救いを保証するものではない。信仰によって主イエスと結びついていないなら、その人は救われていないのである。これは厳しい言葉であるが、同時に厳粛な事実でもある。さばきの日に、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われたなら、なんという非劇的結末であろうか。
罪の認識、告白、主イエスへの信頼、聖霊に導かれて神の御心を行うこと、これらが本物の信仰を証明するものである。私たちは、自己欺瞞の人生を歩んでいないだろうか。私たちの周りに、形式だけのクリスチャンはいないだろうか。自分はクリスチャンだと思いながら、実は救われていないとするなら、なんという悲劇であろうか。そのような人たちに、「福音の三要素」を伝えよう。救いは、信仰と恵みによるということを分かち合おうではないか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私を欺瞞から解放し、みこころを行う者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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